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本の感想

評論ではなく、「思ったこと」を書きます

フィリップ・K・ディック著『高い城の男』を読んで

 

高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)

高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)

 

 

 SF小説は著者の工夫を楽しみやすいのが特徴だと個人的に思っているが、本作の白眉はやはり物語の構造にあるだろう。第二次世界大戦の結果を逆転させた舞台設定と、そこに登場する逆の世界を描いた小説。この二重の逆転構造が物語全体を牽引してゆく。また、真実と嘘というテーマも加わり、本物と偽物が交差する複雑な描写はサスペンスのようでもある。

 枢軸国が連合国に勝利した世界では、冷戦時代のようにドイツと日本が対立している。アメリカは戦後ドイツのように分断され、属する国家によって人種の扱いも異なる。日本に占領された側では価値観が東洋寄りである。西洋人よりも東洋人の方が地位が高く、美人の基準も日本的なものになっている点はリアルだ。現在の日本の広告などに欧米人が使用され、欧米人的なスタイルが良しとされている背景にも戦争があるとみていいだろう。
 ディックの描く日本人は欧米文学のなかでもそれなりに日本人らしいと思う。しかし様々な要素が取り入れられてはいるが、日本人というよりも東洋人という表現が当てはまる印象だ。例えば易経儒教と関係が深いが、儒教自体は日本にそこまで馴染みがない。儒教といえば韓国や科挙に使っていた中国が代表的だ。もしかすると作中ではこれらの国は全て大東亜帝国に含まれるのでごちゃ混ぜにした可能性はある。日本文化は東洋の諸外国から模倣して形成されたという皮肉なのかもしれない。
 精神性もきちんと考察されている印象を受ける。特に物語の終盤で田上がフランクの装飾品を吟味する描写では様々な文化を引き合いにしているが、語り方は仏教や禅をも彷彿とさせる。田上は真理をシンプルな三角形に見いだそうとし、解脱を図ろうとする。宇宙が小さなものに内包されているという思想は東洋的だ。

 日本とドイツが勝利した世界で出版された「イナゴ身重く横たわる」はさらにその逆の世界を描いている。この本のなかでは大戦の勝者は連合国。実際の歴史と同じだ。
 だが逆の逆は表ではないところが面白い。連合国が勝利した場合の歴史は現実の歴史とは異なったものになっている。その世界ではアメリカとイギリスが覇権を争っているのだ。裏の裏は表のはずなのに、なぜ現実と食い違っているのだろうか。
 裏の裏が表であることは論理学の排中律の原理による。排中律は「Aか非Aのどちらかで、その他は認めない」という原理だ。第二次大戦に当てはめると、「連合国の勝利」か「枢軸国の勝利」かのどちらかであるということになる。そして排中律は中間やその他を認めない。だが歴史的にも、戦争はどちらの勝利ともならない事態が多く存在する。勝利となっても実際の利益は講和条約の細かい条文によって決定する。ましてや連合国枢軸国共に複数の国家の集まりだ。本作のように一部の国家の謀反や離脱が起こることはあるかもしれない。戦争に排中律の原理は適用しづらい。
 「イナゴ」の作者は易経を利用し何千もの選択を繰り返すことで本を執筆した。これはそのまま著者の歴史観ともとれる。歴史は数多の選択の集積によって構築されているという思想だ。そのなかでも選択には大きなものと小さなものがある。教科書に残るような大きな選択の裏には大量の小さな選択が存在している。戦争の結果も個々の小さな戦闘によって左右されている。その場合バタフライ効果のようにほんの少しの差によって結論は変更されてしまうだろう。
 選択には「完全な裏」があるのではなく、小さな要因ごとにパラレルな世界があるだけだ。というように解釈できる。本書の世界も「完全な裏」ではないからこそ、その裏も表ではないのだろう。

 本書は「表と裏」のほかに「真実と嘘」のテーマも持っている。
 本物にはそれだけがもつ歴史が内包されている。また歴史をもつものを骨董品ともいう。しかし本作では本物そっくりの偽物が登場する。フランクの作る精巧な偽物はもはや本物と区別できない。本物と区別できない場合、もはやそれは本物なのではないか。
 ベンヤミンの「アウラ」という概念がまさにこの状況にはふさわしい。「アウラ」は「芸術作品を前にした時の畏怖の念」と表現される。本作の場合は骨董品を手にした時、その物がもつ歴史的なロマンに対して感動することがそれにあたる。骨董品はその物自体に大きな価値があるのではなく、歴史に価値があるのだ。
 だがベンヤミンアウラを「共同幻想」とも表現する。本物そっくりな偽物を前にしたとき、本物と同様の感動を得ることができてしまう。これはまさに物の歴史が共同幻想なのだと自覚させられる事態だ。
 そして歴史そのものも不確かに思えてくる。「いっきに学び直す日本史(近代・現代)」の「歴史の意味」の部分にこのような記述がある。『歴史という語は二義的である。第一に、それは「過去に起こった事柄」を意味するが、第二に、それは「過去についての記述」を意味する』。歴史というとあたかも確実に積み重ねられた足跡のように勘違いしてしまうが、歴史を構築しているのは後の人間なのだ。そこには編纂した人の主観や物理的な不完全さが入り込む。その意味で歴史は揺れ動くものであり確実性は保証されない。本作で売り買いされていた品物たちもそのような脆い価値によって支えられていたのだ。
 田上と手崎将軍とバイネスの会談も、ジュリアナがSD隊員を殺したことにより目的が達せられなかったことも、後の歴史からすると「起こらなかったこと」になってしまう。田上の怒りによってフランクが釈放されたこともフランクからするとなかったことである。歴史は「起こらなかったこと」の積み重ねで支えられているのだ。

 物語の終盤、田上はフランクの作った装飾品によって現実のアメリカを目撃する。真理を超越した存在によってパラレルワールドへ飛ぶというのはいかにもSFといった描写だ。
 日本人優位の世界で暮らしていた田上が、白人優位の世界に驚く。これは終戦時の状況に似ているのかもしれない。戦中日本人は戦意高揚のために自分たちを全肯定されていた。それが終戦によって崩れ落ちた。この時の価値観の崩壊は容易に受け入れ難かっただろう。そしてもし日本が勝っていたら、本作のように日本人優位が続いていただろう。その場合日本人優位というのはまぎれもない「真実」になるのだ。
 イデオロギーや歴史はそれが真実だと受け取りやすい。だがそもそも真実とは何かという問いに私たちは答えられないということをこの小説は教えてくれる。

 さらに本作の終盤では易経によってこの作中作の世界こそが真実であると告げられる。つまりフィクションの登場人物たちに「この世界は真実ではない」と伝えられているのだ。これは文化度の高いギャグか。
 逆というモチーフは私たちの世界に反映させやすい。本作の世界の「イナゴ」は、この世界の本書にあたる。今易経に聞けば「高い城の男」こそが真実であると告げるのだろうか。