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本の感想

評論ではなく、「思ったこと」を書きます

ローレンス・クラウス著『宇宙が始まる前には何があったのか?』を読んで

科学

 

宇宙が始まる前には何があったのか?

宇宙が始まる前には何があったのか?

 

 

 本書は宇宙科学の面白さや諸課題を平易な言葉によって紹介してくれる。難解な理論物理学は一般人には縁遠い。それにもかかわらず最先端の面白さを共有することができるのはポピュラーサイエンスの功績だ。
 同じ目的を持った本が1988年にも発表されている。かの有名な『ホーキング宇宙を語る』だ。本書の「はじめに」にある無限に続く亀のたとえ話もホーキングからの引用だろう。この2冊の宇宙の認識史の流れはほぼ同一だ。宇宙科学と人間原理との戦いという部分も共通している。だがエピソードやウエイトが微妙に違う。理論物理学という無機的に思える分野でも作家性が現れる点が面白い。

 科学の面白さを一般の人たちに伝える仕事を欧米ではサイエンスライターと呼び、職業として認知されている。日本では確立されている感はないが、米村でんじろうさんや茂木健一郎さんなどが当てはまるだろう。そもそも専門的な研究の成果を専門用語や数式を用いずに説明することは難しい。その意味でサイエンスライターは奇異な才能を必要とする。厳密さと分かりやすさを両立させつつ、その先にある楽しさを紹介する能力だ。日本ではこの能力に対しての評価が低いように思う。専門的な研究者は研究の内容を問わずに崇拝される傾向が強い。偉いから学者なのではなく、学者だから偉い。自分でも理解できそうな研究はあまり凄くなく、理解できない研究は凄いのだ。一般人の中ではこのように倒錯が起こっている。だからこそ専門的な研究は理解する必要がないと考えているのである。だが、研究者は税金で養われている。市民が社会への効用を期待して雇用しているのだ。雇用主がこのような態度でいいのだろうか。橋渡しをしてくれるサイエンスライターたちに耳を傾け、リターンを享受するべきではないのか。
 科学に限らず、何の為に学んでいるのかわからないものは楽しくない。将来どのように役に立つのかのイメージさえ掴めれば、暗記も苦行ではなくなるだろう。日本の教育は詰め込み型か心の豊かさかと二元論に陥りがちだが、本当に議論すべきはそこだろうか。いずれにせよ問題となるのは「どのように」の部分だ。残念ながら現在の教育は積極的な学習を喚起するに至っていない。インセンティブの大半は受験や就職といった将来への不安だろう。人は楽しさが分かれば言われなくとも覚え調べる。それは教育ではなく学習と呼ばれる。学習への種付けを行うのが教育の役割ならば、文言の如何などではなくいかにしてポジティブな動機を発見させるのかを議論したほうが有益だろう。

 本書に限らず海外の宇宙科学ものの本では神の話が頻繁に登場する。日本人では無神論者が多勢なのでこのような議論をすることは珍しい。では日本人のスタンダードな宇宙の認識とはどのようなものなのだろうか。私たちは科学を勉強する以前どのように考えていたのか。もしかすると多くの人が答えられないのではないか。キリスト教的な世界観を笑う前に自分たちのプリミティブな認識を思い出さなければならない。
 仏教の宇宙観といえば曼荼羅だ。とくに日本仏教では伝統的に金剛界曼荼羅胎蔵界曼荼羅の両曼荼羅がセットになっている。金剛界は精神的な世界を、胎蔵界は物質的な世界を担い二つ合わせてひとつの宇宙を構成する。物質と精神の乖離は西洋でも古くから発見されていたが、仏教も同様の認識であったことがわかる。
 そして悟りという最終的な目標が超現実なものだとすれば金剛界は内側から外側へ、胎蔵界は外側から内側への運動と見ることができる。これは極小空間についての量子論と、大きなスケールを記述する一般相対性理論の両輪によって宇宙を解明しようとする現在の科学状況と似ている。
 著者が神学者ディベートすることで発想を拡張するように、文系が科学を学ぶことでも新たな見識が得られる。そして科学の最先端はまだ常識の感覚では追いつけないということは、表現活動のフロンティアを供給してくれているのも科学なのだろう。