本の感想

評論ではなく、「思ったこと」を書きます

九鬼周造著『「いき」の構造』を読んで

 

「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)

「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)

 

 

 本書は題の通り「いき」という日本独自の現象について、分析哲学の手法でその構造を明らかにしようとしている。その分析の手順などは科学の方法に近い。堅実かつ地道な分析の積み重ねによって「いき」が再構成されていく。自明に思われる点でさえもメスを入れていく姿勢に驚嘆した。本書では公共圏という言葉が度々用いられるが、本書の発表が1930年、ハーバーマスの『公共性の構造転換』が1962年である。もちろんハーバーマスの含意はないが、勘違いをしながら読むのも面白いだろう。

 著者は最初に「いき」が日本民族とイコールのものであることの確認を行う。一見「いき」が日本独自のものであることは自明に思われる。だがその点でさえもぬかりなく比較することによって、日本民族の文化歴史をアイデンティティーとして持ち込む必然性を強調している。哲学は再確認のプロセスでもある。そして九鬼周造の哲学はそのプロセスが面白い。
 本稿の最大の特徴は「いき」の分析を内包的方法と外延的方法の二つによって行ったことだろう。概念を内側から思索によって規定し、その後隣接する概念との差異を明確にすることでその輪郭を決定する。結論でもこの手法の順序の重要性が触れられていたが、このプロセスを提示されただけで目から鱗だ。
 本書を読む限り、「いき」とは主に江戸で使われ近代までは皆が共有していた概念のようだ。そして日本を象徴する概念でもある。だが自分は「いき」についてあまり知らずに生きてきたことも分かった。「いき」の中で大きなウエイトを占めるのが、異性への媚態である。「いき」とは、異性へのアピールの度合いが丁度いいことを示す概念なのだ。自分は勝手に「いき」にそのような意味が含まれているとは思わず、侘び寂びの類だと思っていた。野暮でもなく地味でもなく派手でもなく上品でもない。それだけでなく「いき」には異性というものが大きく意識されているのである。これだけでも本書を手に取った時とは「いき」の印象が変わった。
 すべての文章の中に異性というものが写り込むことで、表現の端々が面白く見えてくる。「いき」と野暮の比較の部分では『もとより、「私は野暮です」というときには、多くの場合に野暮であることに対する自負が裏面に言表されている。異性的特殊性の公共圏内の洗練を受けていないことに関する誇りが主張されている。』とある。これは童貞が初体験などを大切にしようとする典型的な心理を表しているように読める。ファーストキスは大事にしたいというような決まり文句の裏にある思考だ。そこには確かに女慣れしていないことへの誇りが含有されていると思う。自身の状態を潔白で清廉であると主張し、自ら行動しない理由としている心理だ。野暮に関する些細な表現から童貞の心理が構築できる。童貞を自負する童貞は野暮なのだ。
 また『荷風の「渋いつくりの女」は、甘味から「いき」を経て渋みに行ったに相違ない。』とある。甘いと「いき」と渋いの流れを説明した一文だが、これも街角に当てはめることができる。街で渋いつくりの人を見かけたら、「ブサイク」などという陳腐な言葉を当ててはならない。この人も甘味から「いき」を経て渋みに行ったに相違ないと思わなくてはならない。人生誰でも甘く感じられる時期は存在する。目の前にいるのは収穫時期を過ぎて渋くなってしまっただけなのだ。「いき」の流れを知ることで、その人が甘かった時期と「いき」だった時期を想像することができる。想像が新たな角度からの視点を可能にする。その可能性だけでも人を見るのが面白くなりそうだ。

 そうして構築された意識現象としての「いき」を、九鬼はさらに客観的表現としても明確化しようとする。ここでいう客観的とは実際の現象やそれを五感で受け取ることである。九鬼は五感のそれぞれについて「いき」の具体例を挙げてゆく。語尾の抑揚や湯上り姿やうすものの透かしと覆いの関係などは現在でも媚態として通用するものに思える。髷の略式化などは女子高生の制服文化などとも重なる。異性へのアピールであるかは微妙だが、そこには正式な平衡を破って崩す方法論と崩し方の軽妙さによる「垢抜」の表現という点で共通性が見られる。
 それらに共通し九鬼も強調しているのは「元禄文化」と「化政文化」の差異である。元禄文化は17世紀後半から18世紀初頭までの文化を指す。この時期の文化の中心は上方にあり、経済発展とともに文化運動が活発になった。長く続いてきた貴族のための芸術が最も洗練された時期ともいえる。対して化政文化は19世紀前半に主に江戸で起こり庶民に向けての芸術表現が発達した。日本における大衆芸術の誕生した時期だ。文化の担い手が貴族から庶民へ移行したことで、表現の内容もシフトしていく。一般に元禄文化は豪華絢爛、化政文化は質素である。絵画の支持体の例では、前者は多くが金箔であったが後者では普通の紙となる。そして「いき」は質素で細やかな表現の中に現れる。九鬼が「いき」だと主張するものは全て化政文化に含まれるが、「いき」も化政文化も江戸由来のものであるからだろう。

 本書を読んでいかに「いき」を理解していなかったか痛感した。だが同時に、「いき」が存在すると現代の私たちも知っていることを面白く思った。九鬼は結論で『我々が分析によって得た幾つかの抽象的概念契機を結合して「いき」の存在を構成し得るように考えるのは、既に意味体験としての「いき」を持っているからである。』と述べている。「いき」の体験を持っていなければ本書の文章を理解することすらできないはずだ。私たちは無自覚的にも「いき」を体験して生活しているのである。これはまさに私たちが江戸の上に生きていることを示している。同様なことが禅の思想である「無」にも当てはまる。「無」の存在も知っているからこそ理解できるのだ。
 「いき」は媚態の他に武士道の理想主義である意気地と仏教の諦めによって構成されている。そして私たちはその全てを知っている。つまり体験したことがある。現代日本人の精神性はまぎれもなく江戸と通底しているのだ。果たしてどこにその欠片があるのだろうか。