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本の感想

評論ではなく、「思ったこと」を書きます

福岡伸一著『生物と無生物のあいだ』を読んで

 

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

 

 

 まず著者の筆が立つことに驚いた。本書では専門的な知識や歴史が生物学に主軸を置きながらも自身の詩的なセンスで物語られている。非常に良い寄り道が多かった。

 当初読み終わった際に「あれ、結論は?」と率直に思った。まとめにあたる部分が見当たらなかったからだ。そしてもう一度プロローグに立ち返ってみるとようやく本書の意図がわかったような気がした。
 生物とは何か。著者はこの問いに対して最終的に「わからない」と答えているように思う。第15章の最後の一文には「結局、私たちが明らかにできたことは、生命を機械的に、操作的に扱うことの不可能性だったのである」とある。ここまで一冊を費やして科学の手法を紹介してきた。しかしその結論は、科学の限界性だった。生物の謎を解き明かすために科学を発展させてきたが、とうの生物は科学では解き明かせないという結論が与えられたのだ。これによって今までの科学の道のりが無に帰すわけではないにしても、望んでいた結論からは違っている。これは数学の不完全性定理の発見にも似ている気がする。
 だがこの表現は、別の結論を内包しているようにも読める。先の一文は「生物とは、機械的に、操作的に扱えないものだ」と解釈できるのだ。つまりは逆説的に生命というものの定義を示している。このように直接的に書かないところに、著者が生物学という機械的で操作的な学問に属していることや、そう納得したくないというような思いが滲んでいるように思う。「科学の発展によって辿り着いた最新の答えがここにある。だがこれは更なる発展によって覆される可能性のある結論だ。そしてそう思いたい。なぜならこれまでの生物学史は、前世代の結論を覆しながら進んできたのだから」と、言いたいのではないだろうか。
 科学の基礎は、記述することである。観察した対象を紙面上に記述することが科学のスタートであり、それによって科学の確かさも保証されている。だが生物は絶えず変化しているのに対し、書類上の生物は変化しない。すでにそこで乖離が始まっている。事後的な痕跡としての記述は静的なシステムの象徴であり、動的なシステムを持つ生物とは相容れない。静的な性質を持つ科学という方法論は、確かに生物の解明には不向きなようだ。
 それと似た関係に接近しているように思うのが人口知能だ。人口知能はアルゴリズムの集積であり、複雑であっても記述される方法論が存在する。これは静的なシステムである。そしてこの人口知能が模倣しているのが、動的なシステムである人間の脳だ。これははっきり言って不得意分野だろう。計算能力では人類を圧倒する人口知能が、わざわざ人間の脳を真似するのである。もちろんそれほどに人間の脳が巧妙であることが一番の理由だろう。だが、いくら優れた人口知能であっても、それが優れているかどうか判断するのは人間だ。そして人間は人間的なものを高く評価するように思う。ロボットがことごとく人型であることも似たような理由なのだろうか。
 人口知能が脳を完全に模倣できるかという問題は、科学が生命を解明できるかという問題と非常に近い。そして本書の結論に則って推測すれば、完全な模倣は不可能ということになる。
 人口知能が発達すればより人間の脳に近づく。だがそこには確実に差異が存在する。これは生物とはなにかという答えによる差異だ。そして人口知能はその差異を埋めるべく発展し解決する。そこにまた新たな差異が発見される。差異はその都度解消されながらも、永遠に消滅することはない。人口知能が発展するということは、新たな脳の定義が発見されることでもあるのだ。
 この定義の変更や再発見の流れこそが歴史であり、それによって現在の科学が成り立っている。著者は科学を研究者たちの人生の連続として捉えているようだ。そこには多くのドラマがあり、稀有な巡り合わせによって発見がなされる。科学という静的なシステムは動的な生命の連続によって構築されてきた。
 研究室の道具の一つ一つや教科書の用語などからそのドラマが読み取れればどれほど面白いだろうか。