本の感想

評論ではなく、「思ったこと」を書きます

橋爪大三郎著『はじめての構造主義』を読んで

 

はじめての構造主義 (講談社現代新書)

はじめての構造主義 (講談社現代新書)

 

 

 本屋の新書コーナーを見ていて、何気なくこの本を手に取って読むことになった。装丁は新しいが、本書が出版されたのはなんと1988年だ。そうとは露知らず、ごく近年執筆されたものだろうと勝手に思いながら読み終えてしまった。思想書の類を読んでこれほど感動するとは思いもよらなかった。
 言われてみれば、端々にその時代を思わせる部分はある。マルクス主義についての説明が簡潔であることもそうだろう。やはりどの時代の人々も、少し前に関しては詳しいのだ。また本書が出版される5年前に浅田彰の『構造と力』が世に出ている。どのくらいの人が理解できたのかは不明だが、哲学が関心を集めていた稀な時代であったことは確かだ。多くの人がその世界を知ったと同時にその壁の高さも感じただろう。そんな時代に、難解な哲学書への橋渡し、もしくは動機付けを行うために本書は書かれたのかもしれない。
 思想の解説書はどうしても淡白になる。思想がたいてい複数の概念を提示し、それを一つ一つ説明して行けば字引のようになってしまうからだ。また誰それの入門となっていても、ウィトゲンシュタインのように時期によって変化する場合が多い。それをまた個別に記述すれば、字引になる可能性は高くなる。思想がどこかで「楽しむもの」から「覚えるもの」になってしまうのだ。そんな思想書がもつ壁を、独断と偏見で越えていった点が橋爪さんの功績だろう。
 多くの本を読むことが暗黙のうちに是とされ、多くのことを知ることが是とされている。そんな風潮とも言えないものがどこかにある。多くを知ることは見識の広さを生み出し、人を豊かにするからだ。多くを知ることは素晴らしい。だが同時にどこかで、「知る」の意味が「聞いたことある」というレベルにまで下がっているような気もする。SNS文化の特徴も、「軽さ」にある。気軽にシェア(おすすめ)できる文化だ。友人がシェアしていたものを少し見て、良ければ自分もシェアをする。このループの高速性がネットを動かしている。そもそもシェアした人をそれについて「知る」人だとは思わず「聞いたことがある」人だと思っている。このような新しい「知」のあり方も良いと思うが、これに傾倒しすぎるのは良くない。知識を広く持とうとするほどに、一箇所に留まれる時間は少なくなる。「聞いたことある」ばかりでは、先へ進むことは難しい。むしろ、ノロくあることが正解な場合もあると思う。
 その意味で、本書はとてもノロかった。構造主義を解説すると言いながらレヴィ=ストロース以外はほんの数ページずつで終わらせている。構造主義の全体について読んだとは到底言えない。詳しく知っている人からは、そこしか知らないのかと言われそうだ。しかしこの木を見て森を見ずな知識は沢山の「聞いたことある」よりも価値がある、と勝手に思っている。いや、本という時代遅れでスローなメディアを嗜好しているので、そう思いたいというのが正しいかもしれない。
 知識や歴史などに対して、普遍的で正しい理解というものはないと思う。正しいとされているのはあくまで現時点での多数の見解だ(という見解が正しくない可能性はあるが…)。つまり、どうせ正しくないのだからすべて主観的判断になるだろう。みんなはこう解釈していると言われても面白くない、独断と偏見のほうがまだ面白い。
 本書のようなものが増えて欲しい。そして、そんなものをまた偶然手に取りたいと思った。