本の感想

評論ではなく、「思ったこと」を書きます

森博嗣著『ヴォイド・シェイパ』シリーズ4冊を読んで

 

 

 森さんの本を読むのは今作が最初だったが、時代小説が本職なのではないかというほどのしっかりとした骨組みに驚いた。その骨組みの重要な要素に「哲学」や「禅」が置かれている。時代小説の中心に禅があるのは当然のようでもある。だが、これがとても新しかった。
 ゼンはその名のように禅問答を繰り返しながら旅路を進む。新しいものやことを目にする度に「なぜ」という問いを自分や周囲の人々にぶつける。そこにあるのは単純な興味であり、他人からは幼稚的ともとられる。しかしこの面倒くさい状態こそが哲学であると思う。問い続けることが哲学であり、納得もしくは割り切った瞬間にそれは哲学ではなくなる。哲学を実行しながら過ごすことは非常に難しい。
 それは「今」を切り取ることに似ている気がする。「今」とはまさにこの瞬間であり、過ぎ去った時間ではない。だがその先鋭化したさらにほんの僅かな部分だけが、本来の意味での「今」だ。そしてそれを考えている間にも時間は進み、新しい「今」が生み出されている。それでも「今」を規定しようとする。この際限ないプロセスそのものが哲学であり、こんなことを考えていれば当然日が暮れる。これほど贅沢な学問はないだろう。
 ここまで「禅」と「哲学」を同じものとして述べてきた。本書を読みながら混同していたのだ。読みながらひしひしと哲学だなと感じながらも、そこにあったのは禅である。しかし、この二つは確かに違うものだろう。「禅」と「哲学」はほとんど同じように思えるが、何が異なっているのだろうか。知識不足ながらに考えてみる。
 まず禅は禅宗の思想であり東洋のもの、哲学は西洋のものという区分が思いつく。そもそも「哲学」という言葉は西周が翻訳する際に作った言葉なのだから、同じ意味を持つ言葉は日本に存在しなかったことが分かる。日本の哲学者と聞かれてもあまり思いつかないのはそのせいだろう。
 そしてもう一つ、「空」という概念の元にあるのが禅で、それがないのが哲学とも言える。哲学は「すべてを疑う」ことであるのに対し、禅は「空を見つける」のである。違うような、同じような表現だ。この「空」とは「なにもないこと」である。「無」とも書ける。ないものを見つけるとはいかにも禅問答といった感じだ。対して哲学は「全て」を疑うのだからそもそもの対象がある。結果的に私以外がなくなろうとも、前提としては「ある」のだ。禅は「ないものがある」ことであり、哲学は「あるものがない」ということになりそうだ。哲学の関係で「暴く」「告発する」という言葉が多く使われるのもそのせいだろう。
 そして仏教がインド発祥であることを考えると、禅と似たようなものが思いつく。それは「0(ゼロ)」の発見だ。歴史的には原始仏教のほうが先に成立しているので、仏教の思想がゼロを生み出した可能性は高い。哲学と科学は両極端な学問と思いがちだが、無の思想で通底していたともとれる。
 最後に当たり前のこととして、禅は仏教の宗派であるから宗教である。哲学はよく宗教と対比され、自分で考えることが哲学で人の教えを信じることが宗教という表現をされる。この対立構造の中にあって、「禅」と「哲学」はこれほど近似した存在なのだ。そんなことがありうるのだろうか。
 そこで哲学と宗教という二項対立を外してみる。宗教であるから盲目的だというような前提を外せば「騙されていることを知っていて騙される」というジャンルの成立も可能だということがわかる。「シラけつつノリ、ノリつつシラける」という状態だろうか。「空」という至高の概念を追い求めながらも、その実態は無であることを知っている。無であるのに、さらにそれを見つめ続ける。もしくは、一見それは無であるが、何かが存在することを信じているのかもしれない。もちろんこの問いに答えられるのは禅の道の人だけだろうが、問えば問うほどに哲学的な宗教であることが分かる。
 武士や侍の文化には仏教などの思想が根付いている。思想は文化全体を豊かにする。武具は飾られ、茶室で茶を愉しみ、書院で学を身につけ、能を鑑賞する。武家の時代の集大成である江戸幕府が250年も栄えた背景に、思想が重要視されていたことが大きいと思う。その思想は仏教だとも言えないものだ。大陸から伝わってきた思想を柔軟に取り入れ続けた結果、神道仏教儒学朱子学など様々な思想が組み合わさり他国にはないものが出来上がった。この名前のない思想こそが日本の伝統であり、日本人の精神だったのではないか。名前もなく、解りやすい題目もない。非常に面倒くさいものであったが故に、現代にうまく継承されなかったのではないか。
 この面倒くささに目を向け格闘することは、とてつもなくリッチだ。