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本の感想

評論ではなく、「思ったこと」を書きます

羽田圭介著『メタモルフォシス』を読んで

小説

 

メタモルフォシス (新潮文庫)

メタモルフォシス (新潮文庫)

 

 

 近代からの日本文学の特徴は、学識のある者が自身の経験をフィクションとして発表することにあったと思う。自分の文章を出版物として発表することは、近代では大変なコストを要し一部の人間にしかできない行為であった。そうした物理的文化的背景から、純文学では崇高な精神という虚像が権威を持ったように思う。例えるならば、『罪と罰』のラスコーリニコフのような精神こそが正しい人間の姿であり、これを広めるために文学があるという考えである。副次的ではあるが、崇高な存在から見た世界の記述であるという意味が、文学という言葉の裏に張り付いている。その要因にあったのは、「成熟していない大衆」という認識だったのではないだろうか。ナショナリズム全盛の時代に、何を良しとするかの分別を啓蒙されることが読者の利益だった。一通りの正しさこそが、求められていたように思う。

 そして今の時代、大衆の哲学は分散し文学の必要性は薄まった。物語の展開に重きを置くのであれば他のメディアのほうが発達している。能動性の不要さでも遥かに他のメディアが優っている。文学の性質を記述する際「マンガにはない要素、映画にもない要素」と、文学の定義がネガティブになってきているのだ。このようなネガティブな定義ではなく、ポジティブな定義を樹立する意味で『メタモルフォシス』は前進的な作品だと感じた。
 この本には常軌を逸したフェティシズムが綴られていた。また、この物語は限りなく主観的に記述されている。先に述べたように、文学は主観を表す。この男の周囲の現象が、この主人公の色眼鏡を通して再構成されていた。他人には到底理解できない思想や感覚が、文字を通して読者に訴えかける。読者は否応なく、この主人公の色眼鏡をかけさせられる。その時の世界の認識は、普段の自分のそれとはかけ離れているだろう。そしてその認識が社会的な普遍性を持っているかどうかは非常に重要な意味を持つ。
 近代に於いては、普遍的という言葉の中には崇高が含まれていたように思う。共通の目指すべき目標があり、そこには普遍性が見出されるからだ。ここで、文学という装置の強力な力が現れる。日本人は皆日本語の読み書きを義務教育で習う。ベネディクト=アンダーソンでいう「空想の共同体」を強固にするために、日本語という最低限の共有物をもつのである。これによって容易になるのが、「理解」と「共感」だ。世の中のほとんどの事物は言葉で表現される。それを表す言葉を理解することで、その事物を理解することができる。シニフィエシニフィアンの関係に近いかもしれない。そして同様に他人の感情も言葉で表現し伝達することができる。これを「共感」という。「共感」を実現するためには共通のものが中間に入る必要があり、それが日本語であるということだ。言語のもつ「共感」の作用は強力で、これを最大のインフラにしてメディアは活動を行ってきたといえる。大きな物語は「共感」のツールとして機能していた。
 近代の文学では、読者は「大衆」としてあった。だが現代ではクラスター化した人々が、互いに興味のない者たちを排斥し合うように存在している。そこには共通な認識というものはない。ある意味、それによって様々なジャンルが乱立しているのだろう。住み分けが進むと、「共感」の届く範囲はより狭くなる。それは同時に狭い範囲では「共感」の度合いが増すことも意味する。そしてメディアはそのクラスターごとに向けサービスを展開させることになる。文化が高度化するに伴い、「共感」できるかどうかが良い作品の基準になってしまうのだ。
 その点で『メタモルフォシス』は「共感」など最初から求めてはいない。ここにあるのは近代から続く主観の文脈であり、主観の凋落である。崇高な精神がない代わりに、一個人がいる。文学がもつ意味を解体し、ポジティブな理解を与えてくれる。共感を超えた理解の可能性を、文学に見ることができた。
 だからこそ、文学のもつ感情変化の形式を守る必要はなかったのでは?