本の感想

評論ではなく、「思ったこと」を書きます

濱野智史著『アーキテクチャの生態系』を読んで

 

 


本を読んで、思ったことを記録する


濱野智史著 『アーキテクチャの生態系』

 私は著者について深く知らず、ネットにもさほど詳しくない。よってここでは単純にこの本を読んだ感想を述べたいと思う。あくまで感想であり、批評ではない。

 『アーキテクチャの生態系』は2008年に出版された。主にインターネットやウェブのシステムに関して著者独自の観点でまとめられている。それを2016年に読むことにどのような意義が生じたのか、勝手に論じたい。
 著者は「アーキテクチャ」「生態系」という視点を様々なシステムに適用し、それらは偶然性によって進化・進歩してきたと述べている。この偶然性の中に、先行世代が露呈した問題点なども含まれている。先行世代のシステムではうまくいかなかった部分を、後発のサービスは構造に織り込んだ形で登場するからだ。そしてこの偶然性の糸を手繰っていけば、インターネットを使う人間の社会性にたどり着く。そういった流れから『アーキテクチャの生態系』は、その社会性、とりわけネットの中の日本性についてを中心に論じていたと思う。
 本書の中で述べられていた日本性は、現在でも同じく通用するだろう。今でもデフォルトの姿勢は匿名であり、恥の文化が幅を利かせている。だが少し変化したと思うのは、ネットの中での多様性である。ネットというものが2008年の時点では「若者」や「オタク」などと括られる人達が利用していたマニアックなものである印象に対し、現在では万人が利用するツールとなっている。単純に見れば、母数が増加した影響でデフォルトの姿勢も多様化してきているといえる。そして本書の示唆を踏まえると、アメリカ的なネット空間やSNSの登場によって、「個のエンパワーメント」という思想が流れ込んでいるのではないかともいえる。出版当時「個のエンパワーメント」という考えは日本では受容されていなかったようだが、現在はリスクを負っても個人としてネットに参加する人が多数いる。場合によっては、その人達はリスクを負うという自覚も薄れてきているかもしれない。現実社会の人々のニーズや思想が多様化したことで、ネットは急速にその門戸を広げたと言えそうだ。
 このような柔軟なネットの在り方を実現した要因のひとつがレッシグであり、本書であったのかもしれない。そもそもネット空間はまだフロンティアであると思う。未だ発見されていない人と人の繋がり方や個人のあり方が眠っており、プラットフォームができて初めて求めていた人々が集まる可能性は大きい。本書の中でも「Facebook」は成功しないのではないかと述べてあったが、結果ユーザーを多数獲得するに至った。他のSNSではできない振る舞いを要求し、それをよしとする人が多くいた。そうした人々は事前には埋もれて確認できないことをこの一節からも読み取ることができる。
 多様化した現在では大衆というものは消滅し、ニーズは分散している。この分散したニーズに合わせて、様々な表現の階層が誕生した。表現の階層を言い換えるならば、石岡良治著『視覚文化「超」講義』での「レギュレーション」にあたるだろうか。レギュレーションとはそれぞれの文化にあるフォームのことで、哲学書に求められるものとブログに求められるものが異なるように表現物はそれぞれのコミュニティーに属する。そしてそれぞれのレギュレーションは相対的なものである。新しいレギュレーションが増えていくことで、文化の多様化も図られるのだ。例えば近似したメディアが登場すると先行世代のメディアと衝突し、どちらかが淘汰されるという考えをよく目にする。だが、互いに住み分けがなされ、結果的にメディアの選択肢は増えることが多い。メディアにおけるレギュレーションもまた埋もれているのである。本書ではまた「新たに登場するメディアというのは、常に先行する世代からこうした(くだらないし新しくもないという)視線を向けられるものだ」と書かれているが、著者もまたその重力から完全には逃れられていないと感じる。もちろん自分は比べるべくも無いが、この逃れがたい思想から可能な限り距離を置くことが、真に多様性を許容できる道なのかもしれない。
 ユビキタスという言葉が巻末で使われ、まだ数年しか経っていないが時代を感じた。今は「IoT」がブームだが、インターネットが瞬く間に張り巡らされ全てが数値化された時、世界は何を合言葉に進歩しているだろうか。その頃には社会を「ハッキング」することが当たり前になっているだろうか。高度に技術化された社会では権力は巧妙に隠蔽されることだろう。その社会が健全であるためにも、今の私たちは改めてアーキテクチャに自覚的になる必要がありそうだ。