本の感想

評論ではなく、「思ったこと」を書きます

岡倉覚三著『茶の本』を読んで

 

茶の本 (岩波文庫)

茶の本 (岩波文庫)

 

 

 岡倉天心は本書を英語でのみ出版した。それは本書の目的が日本の精神を西欧諸国へ向けて発信することにあったからだ。西欧人が日本文化の難点である禅の精神などを理解できるよう、言葉によってそれを位置付けようとしたのだろう。
 冒頭では天心の西洋に対する情念が長々と綴られている。これは西洋が上位で東洋が下位であるというイデオロギーへの怒りだ。西洋は自分たちこそが正しいあり方で、間違った人々を吸収し矯正していく方向性を持っている。対して東洋は多様な文化を許容し、柔軟に変化してきた歴史を持つ。天心は茶の文化を通して、歴史的かつ精神的にその柔軟性の価値を説こうとしたのだろう。明治の文明開化はよく言えば追いつく行為で、悪く言えば捨てる行為だった。文明開化を評価した主体は明治政府ではなく西洋にあったような気がする。明治政府の人間は「西洋人として」恥ずかしくない日本を作ろうとしていたのだ。その渦中にあって、このような筋の通った人物がいたことを知ると勇気を貰える。

 本書が天心の手で日本語に翻訳されなかったのはなぜだろう。当時の日本人はすでに茶の精神を理解していると考えたからだろうか。それとも自分の役割を西洋の中に見出したからだろうか。
 岩波文庫の文章は岡倉天心の書いたものではなく、村岡博氏の和訳である。古典の和訳といえば苦い思い出も多いが、本書はとても美しい文章だった。村岡さんの訳が素晴らしいこともあるが、驚くべきはこれを英語で表現した天心にもあるだろう。天心は幼少から英語を学び、その縁から美術に携わっていった。堪能な英語の能力と日本文化の知識が奇跡的に融合し、本書の原文が誕生した。この豊かな表現が当時の欧米文化人の心を打ったのだろう。
 そして今の私たちもこの訳を読んで感銘を受けている。天心がもしこの文章を、日本人が読む必要のないものとして書いたのであれば、取るに足らない日本人である。それは茶の国に生まれ育った人間として恥ずかしく思う。観光立国でもある今、インバウンドに対して日本文化を勧めることにおいても、深い認識を持っているかどうかは重要な問題となっている。
 天心の文章は文化の継承や宣伝においての理想的な姿を示していると思う。逆にそんな目的を持った文章を読んで感動を得るということは、それほどに現在の日本人は西洋化したということなのかもしれない。もしくはデラシネと呼ぶべきか。

 茶は福建語圏からインドへ伝わり、インドからイギリスへと東インド会社によって伝播した。そしてイギリスの植民地であったアメリカへ渡り、これがボストン茶会事件へと繋がる。茶の文化がきっかけとなりアメリカのコーヒー文化へも影響を与えた。日本の茶は広東に由来をもち西暦800年頃には存在している。茶の渡来には遣唐使などが関わっている。その後の需要と思想との混合などは本書にある通りだ。茶を通してこれほどの歴史的情報量を得られることに驚く。
 天心の言うとおり、茶は人を惹きつける。茶は自身を思想の器としながら人間の歴史を渡り歩いてきた。そしてそれはお茶に限ったことではない。フランスでは啓蒙思想と相まってカフェの文化が発達した。コーヒーを飲むためのカフェが知的活動をする場としてあったことは不思議にも日本の茶と共通している。最初は薬用であった点も同じだ。現在はコーヒーの店である喫茶店も「茶」の字が使われているのはそのような理由からなのだろうか。茶の概念はやはり柔軟である。茶の文化は奥が深いだけでなく間口も広い。
 茶は中国から様々な形で世界へ拡散していった。その過程で多くの品種や入れ方が考案され、茶と表記されても文脈によって意味が異なる。本書は原文が英語ということもあって「茶」と表記されているものが「紅茶」であったりする。現代では「お茶をする」はコーヒーのことを指したりもする。それぞれの文脈によって茶という単語を読み変えなくてはいけない。そしてそれぞれの茶は歴史的な背景も併せ持つ。茶の解釈ひとつとっても文化が立ち現れてくるのだ。どのような国であっても、茶を飲むことは思想とは切り離せないのだろう。
 日本の伝統的精神性は武家社会に由来をもち、武士は禅を重んじ、禅は茶道へ繋がる。天心は茶の文化に対する理解のために本書を執筆したのだろうが、現代人にとってはこれが日本文化全体への手引書に思える。そして、そのように誤読できるところに現代性があることも忘れてはならないだろう。

魚川祐司著『だから仏教は面白い!』を読んで

 

 

講義ライブ だから仏教は面白い! (講談社+α文庫)

講義ライブ だから仏教は面白い! (講談社+α文庫)

 

 

 本書で特に良いと感じた部分が二つある。
 ひとつは本書のテーマがゴータマ・ブッダ仏教である点だ。それは現在小乗仏教と呼ばれる。日本は長らくもうひとつの大きな宗派である大乗仏教に親しんできたため、ブッダの思想について実はあまり詳しく知らない。本書は解説の重心を小乗仏教に置くことで、普段日本人が思い描いている仏教のイメージを相対化している。
 二つ目は宮崎哲弥さんの解説である。今は解説書や入門書というのがどんな分野にも大量に存在する。むしろどの入門書を選ぶかで迷ってしまう始末だ。「難しい」ことと「やさしい」こと。非常に難しいさじ加減を求められる入門書にあって、何がよい入門書なのかという方針を示してくれている。思わず手を叩いてしまいそうになる、そんな解説だ。

 インドの死生観の根本には輪廻がある。そしてこの輪廻の上に成り立っているのが仏教だ。ブッダの言説は輪廻を前提としているため、中国人や日本人には素直に受け入れがたい。よって大乗仏教では経典の内容を抜粋歪曲したりして耳障りのよい思想に変換しているのだと著者は言う。
 輪廻思想の源流をたどるとバラモン教聖典である「ヴェーダ」が出てくる。「ヴェーダ」は4部にわかれ、なかでもウパニシャッドインド哲学のもととなった。ブッダの説法が理論展開のようになっている原因の一端がウパニシャッド哲学である可能性は高い。またブッダが自説経(ウダーナ)で「地水火風」という要素分解をしていることも、バラモン教の自然崇拝に類似している。仏教の前提にはバラモン教の影があるのだ。そしてバラモン教からさらに遡ればインダス文明にまで到達する。仏教の成立する因果を紐解いていくと四大文明にまでたどり着けるのだ。
 仏教ヒンドゥー教は共にバラモン教の腐敗から誕生した宗教である。また、テーラワーダ仏教大乗仏教の関係は同人誌的だと本書の中で表現されていた。この視点を拡張すれば、仏教バラモン教の二次創作となる。このまま拡張をしていくと、世界には四大文明を起源とする大きな同人誌宗教が存在することになるのだ。ひとつの宗教を学ぼうとしただけで、これほど多くの宗教が相対化される。インドから東洋の思想を学ぶ橋頭堡としても、仏教は面白い。
 輪廻と同じく本書で大きなウエイトを占めていたのがおっぱいである。本書のなかでおっぱいは「欲望の対象を楽しみ、欲望の対象にふけり、欲望の対象を喜ぶ」ことの比喩とされていた。この一文を見て真っ先に思い浮かぶのが消費社会ではないだろうか。経済のシステムは「より多くを稼ぎ、より多くを消費する」サイクルを行うのが消費者だと定義している。このようなシステム的なまとめられ方は気に入らないという人もいるだろうが、事実人間はそのようであるから仕方ない。誰だってボーナスを貰えば多少は使ってしまう。政治では市民や国民とされる人々が、経済学ではそのような「消費者」だとされているのだ。
 以上をまとめると「人間(現代人)=おっぱい」となってしまう。これを否定できないところに資本主義の弱点があるのだろう。紀元前を生きていたブッダの言葉がチクリときてしまうのは、どこかに罪悪感のようなものがあるからだ。
 仏教では煩悩を滅していない者を凡夫と呼ぶらしい。著者は括弧でパンピー一般ピープル)と注釈を入れていたが、一般人は相対化されて初めて一般人になる。一般とは特殊に対面して初めて一般たりうるからだ。つまり一般人は自分が一般人であることを知らないまま生きている。そこで知らない分野へ入門していくことは、いかに自分がパンピーであるかを自覚する契機になる。学ぶとは相対化の連続なのかもしれない。
 その上で魚川さんの文章を読むと、これが一部の見解であると何度も注釈をいれることの重要性が理解できる気がする。

 最後に余談だが、本書でブッダの思想を知ったことである小説の見方が一つ増えた。伊藤計画の「ハーモニー」である。
 人間の「意志」というものが果たして何であるのか。それは人間にとって有益なのか有害なのか。それを超越した先に何が待っているのか。この小説がブッダの思想に見えてしょうがない。

ジェイムズ・P・ホーガン著『星を継ぐもの』を読んで

 

星を継ぐもの (創元SF文庫)

星を継ぐもの (創元SF文庫)

 

 

 鏡明さんのあとがきにもあったように、この物語はSFとしか言いようがない。ストーリーの中心には常に科学があり、調査や会議によって話が進行する。理論や根拠をもとに結論を推測する科学的方法とサスペンスの形式が見事に融合している名作だ。

 SFというと未来の世界やガジェットなどが注目される。特に最近は過去のSF小説などがCG技術によって映像化されることが多いため、作り手側も意識的に誘導しているように思う。つまりはエンタメ要素としてガジェットなどに目を向けさせることの効用が大きいのだ。目新しいビジュアルは端的に観客を惹きつける。よってSF映画では特にガジェットが押し出されることになる。スターウォーズならライトセーバーにあたるだろう。この設けられた入り口がそのままSFの代名詞となってしまい、のちに続くSFの前提となってしまう。
 SF小説の低評価レビューの常套句に「期待はずれ」があるのもそれが原因ではないだろうか。その読者は読む前に期待をしている。小説が外的にプロモーションできる要素は装丁とあらすじだけなので、普通に考えればそれほど的外れな期待はされないはずだ。おそらく、逸れてしまう程の期待をもたらしたのはエンタメ的なSFの存在だろう。実際に何を期待して読んだのかは不明だが、SFというジャンルがもつ印象のほとんどが視覚からもたらされていることは確かだ。
 当たり前だが、同じものを違うメディアで表現することは非常に難しい。本では主観的に時代背景などを書き連ねてしまえるが、映像で同じ内容をモノローグで喋られたらさぞ退屈だろう。逆に言えば、全ての表現物はメディアを選択された上で表現されている。もし商業上の理由で他のメディアへ移植されることがあれば、移植先のメディア特性に合致した表現に変換されることになる。そこで初めてビジュアル先行型のSFが誕生する。しかし映像のもつ力は強い。メディアミックスの手法によって多角的に表現されようとも、鑑賞者の心象は多くが映像によってもたらされたもので構成される。結果的に、ビジュアルがジャンルを作るのである。そしてジャンルに対して持つ印象は理解の足掛かりにはなるが、場合によっては足枷にもなるのだろう。
 だからこそ今の時代にSF小説を読むことには、懐古趣味以上の価値がある。世界がわかりやすいエンタメで満たされている今、そうではない楽しみの代表格として古典SF小説が存在するように思う。
 本作はSF小説のなかでも「過去」についての物語という点で珍しい。多くのSF小説は、今までの歴史を未来に適用することで物語を構成している。未来では技術発展によって事件などが起きる。その出来事の素には歴史が参照されている。ハインラインなどはそれが顕著だ。歴史を材料に使って未来を描くというのがSF小説の本懐といっても間違いではないだろう。そんななかにあって、本作は逆を行く。木星まで有人探査している点では未来だが、大きなテーマは過去にある。
 本作のサイエンスは考古学的に展開される。幾つかの証拠がフィクションとして歴史に挿入され、それとの整合性を求めて主人公たちは奔走する。現在についての理論であれば実験によって確認することができるが、過去については確認することはできない。よってここでのポイントは無矛盾性と妥当性である。科学的に測定された数値と矛盾せず、構築されている理論の範疇にある仮説を樹立することがここでの最終目標だ。これは言い換えれば解釈の問題である。数値や理論がどれほど集まっても、その因果関係をどう解釈するかによって、もたらされるものが変化するのだ。これが科学の面白い部分でもあり、最も難しい部分でもあるのだろう。
 作中ではあらゆる可能性を排除しない形で仮説の樹立がなされる。常に狭量な思考にならないことの重要性が訴えられている。だが物語の終盤でその主人公ですら「人間は地球で進化してきた」という観念に囚われていたことが露呈する。可能性を排除しないことの難しさを示すとともに、複数人で物事を考えることの重要性も説いている気がする。人間は観念によって可能性を無意識に排除してしまう。だからこそ意識的にそれを行わないようにしなくてはならない。この主人公の姿勢こそ、「期待はずれ」と思ってしまった人たちに響いて欲しい。
 ポール・ゴーギャンの絵画に「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」がある。フランスからタヒチへ渡ったゴーギャンは住民の素朴な生活を見てこの言葉を想起したのだろう。原始的な生活の向こうに、人類の起源を想像したのではないか。考古学は過去を知るためだけにあるのではない。過去を見つめることは現在を知り未来を見つめることに通じている。その点では構想として「2001年宇宙の旅」に本作は似ている気がする。
 自分たちの文明は確固たる足場を持っているように見えて、実はとても脆い根拠によって支えられている。もしそれを突きつけられた時、素直に受け入れられるだろうか。

福岡伸一著『生物と無生物のあいだ』を読んで

 

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

 

 

 まず著者の筆が立つことに驚いた。本書では専門的な知識や歴史が生物学に主軸を置きながらも自身の詩的なセンスで物語られている。非常に良い寄り道が多かった。

 当初読み終わった際に「あれ、結論は?」と率直に思った。まとめにあたる部分が見当たらなかったからだ。そしてもう一度プロローグに立ち返ってみるとようやく本書の意図がわかったような気がした。
 生物とは何か。著者はこの問いに対して最終的に「わからない」と答えているように思う。第15章の最後の一文には「結局、私たちが明らかにできたことは、生命を機械的に、操作的に扱うことの不可能性だったのである」とある。ここまで一冊を費やして科学の手法を紹介してきた。しかしその結論は、科学の限界性だった。生物の謎を解き明かすために科学を発展させてきたが、とうの生物は科学では解き明かせないという結論が与えられたのだ。これによって今までの科学の道のりが無に帰すわけではないにしても、望んでいた結論からは違っている。これは数学の不完全性定理の発見にも似ている気がする。
 だがこの表現は、別の結論を内包しているようにも読める。先の一文は「生物とは、機械的に、操作的に扱えないものだ」と解釈できるのだ。つまりは逆説的に生命というものの定義を示している。このように直接的に書かないところに、著者が生物学という機械的で操作的な学問に属していることや、そう納得したくないというような思いが滲んでいるように思う。「科学の発展によって辿り着いた最新の答えがここにある。だがこれは更なる発展によって覆される可能性のある結論だ。そしてそう思いたい。なぜならこれまでの生物学史は、前世代の結論を覆しながら進んできたのだから」と、言いたいのではないだろうか。
 科学の基礎は、記述することである。観察した対象を紙面上に記述することが科学のスタートであり、それによって科学の確かさも保証されている。だが生物は絶えず変化しているのに対し、書類上の生物は変化しない。すでにそこで乖離が始まっている。事後的な痕跡としての記述は静的なシステムの象徴であり、動的なシステムを持つ生物とは相容れない。静的な性質を持つ科学という方法論は、確かに生物の解明には不向きなようだ。
 それと似た関係に接近しているように思うのが人口知能だ。人口知能はアルゴリズムの集積であり、複雑であっても記述される方法論が存在する。これは静的なシステムである。そしてこの人口知能が模倣しているのが、動的なシステムである人間の脳だ。これははっきり言って不得意分野だろう。計算能力では人類を圧倒する人口知能が、わざわざ人間の脳を真似するのである。もちろんそれほどに人間の脳が巧妙であることが一番の理由だろう。だが、いくら優れた人口知能であっても、それが優れているかどうか判断するのは人間だ。そして人間は人間的なものを高く評価するように思う。ロボットがことごとく人型であることも似たような理由なのだろうか。
 人口知能が脳を完全に模倣できるかという問題は、科学が生命を解明できるかという問題と非常に近い。そして本書の結論に則って推測すれば、完全な模倣は不可能ということになる。
 人口知能が発達すればより人間の脳に近づく。だがそこには確実に差異が存在する。これは生物とはなにかという答えによる差異だ。そして人口知能はその差異を埋めるべく発展し解決する。そこにまた新たな差異が発見される。差異はその都度解消されながらも、永遠に消滅することはない。人口知能が発展するということは、新たな脳の定義が発見されることでもあるのだ。
 この定義の変更や再発見の流れこそが歴史であり、それによって現在の科学が成り立っている。著者は科学を研究者たちの人生の連続として捉えているようだ。そこには多くのドラマがあり、稀有な巡り合わせによって発見がなされる。科学という静的なシステムは動的な生命の連続によって構築されてきた。
 研究室の道具の一つ一つや教科書の用語などからそのドラマが読み取れればどれほど面白いだろうか。

山田宗樹著『百年法』を読んで

  

 

百年法 上

百年法 上

 

 

百年法 下
 

 

 

 永遠の命に関する議論はいつの時代も行われてきた。不老不死は人類の最大のテーマといってもいいのではないか。そしてこれに執着するあまり、判断を誤る。
 不老不死のアイテムは様々な物語の目的物として登場する。人間たちはそのアイテムを手に入れるため、私財を投げ打ってでも手に入れようとする。これは滑稽噺としての面もあるだろうが、笑ってばかりもいられない。仏教では人は生・老・病・死の4つの苦を持つと説く。この4つの苦をもつことが生きることそのものであると教えてくれるが、人類は科学でこの苦を少しづつうやむやにしてきた。この少しの成果が万能感を与えてしまう。そして人の持つ万能感は、容易に不老不死へ辿り着いてしまうのだろう。
 不老不死はできなくとも、科学の進歩などによって近い未来ではかなりの長寿命になっているかもしれない。本書はそれの極端な場合を描いている。そして逆に現在の超高齢化社会は、そこへの過渡期とも見ることができるのだ。だからこそこのSFは確かに日本の未来を描いているという怖さがある。技術が進歩しようとも人の本質はなかなか変化しない。ある意味、その愚かさであったりが変化しないからこそ未来の話にも没入することができる点は皮肉だろうか。
 本書の描写でも、人々の愚かさがストーリーを動かしていた。人はどれほど利己的で判断を誤るのか、それは誰しもの心に刺さる筈だ。また、その愚かな人類が政治を行う。本書の出版は2012年だ。この年は3年前に誕生した民主党政権が崩壊し、現政権が始まった年である。そのような政治状況がおそらく本書の基盤となっている。
 55年体制が崩壊した細川内閣以来の政権交代が、2009年の衆院選で起こった。その時の選挙はもはや祭りのようだったと覚えている。野党であった民主党の実現性に乏しいマニフェストに文句は言わず、滅多に起きない政権交代の高揚感が市民を動かしていたように思う。そして3年後には期待はなくなり、祭りに飽きた世論によって民主党政権が終わりを迎えた。その責任は政権だけでなくメディアにもあると思うが、メディアは政権のせいにする報道しかしなかった。
 この政権交代というメディアイベントによって容易に人が誤ることが露呈した。残念な現実が突きつけられたのだ。この状況からどう改善すればいいのかを著者なりに考えた結論が、本書の終盤で描かれていた。時限的な独裁というのもそうだが、それは当時の弱い政権があってのことだと思う。今それを主張すればかなり叩かれそうだ。
 時限的という制約を設けることによって民主的な国家と独裁を両立させるというのが著者の執筆時点での答えであった。本書ではその後については全く触れられていないが、勝手に想像してしまおう。
 独裁とは究極の中央集権だが、これはどこまでうまく働くだろうか。国家組織の難点は全体が見通せない点にある。これは社会主義が失敗した原因でもある。一人の人間が全体を把握できないまま指示を出すのであるから、齟齬が生じるのは当然だ。そこでトップに立つ者は裁量を分散させることになる。大きな問題や方針の決定を自ら行い、小さな問題については別の者に一任する。そしてこの責任委託の構造が末端にまで伸びることになるのだ。この末端に近い部分については中央の人間は関知しない。こうした部分から関係性は硬直し、癒着が始まるだろう。そしてこの癒着構造は、独裁の時限的な終了をもってしても改善されない可能性が高い。おそらく便利であるという理由から今までの関係を継続する者たちが多いだろう。かつて財閥が解体されたにも関わらず、現在も同じ系譜のコンツェルンが台頭しているように。
 もちろんこれも人間の愚かさから来る現象だろう。いつの時代にもある人間の癖だ。本書は、人間はその癖を歴史から学び改善できるはずだと訴えている。それに応えることができれば、本書の突飛な主張も選択の視野に入ってくるだろう。
 本書に出てくる大統領官邸パレス・フジは富士山の麓にある設定だ。富士山は「尽不山」や「不死山」とも書かれ、不老不死とも縁が深い。竹取物語では富士山の頂上で不老不死の薬を燃やしたというシーンがある。富士山という地を使うにあたってもそれだけの意味がこめられているのだろう。
 ストーリーの面白さもさることながら、そういった多くの知識が本作を支えている。またその知識を読み解くためには自分が学ばなければいけない。これは古典を読む時の心構えと似ている。つまり本書はそれだけの名作だと思う。
 まだまだ深読みする必要がありそうだ。
 なるほど、やっていやがる。

橋爪大三郎著『はじめての構造主義』を読んで

 

はじめての構造主義 (講談社現代新書)

はじめての構造主義 (講談社現代新書)

 

 

 本屋の新書コーナーを見ていて、何気なくこの本を手に取って読むことになった。装丁は新しいが、本書が出版されたのはなんと1988年だ。そうとは露知らず、ごく近年執筆されたものだろうと勝手に思いながら読み終えてしまった。思想書の類を読んでこれほど感動するとは思いもよらなかった。
 言われてみれば、端々にその時代を思わせる部分はある。マルクス主義についての説明が簡潔であることもそうだろう。やはりどの時代の人々も、少し前に関しては詳しいのだ。また本書が出版される5年前に浅田彰の『構造と力』が世に出ている。どのくらいの人が理解できたのかは不明だが、哲学が関心を集めていた稀な時代であったことは確かだ。多くの人がその世界を知ったと同時にその壁の高さも感じただろう。そんな時代に、難解な哲学書への橋渡し、もしくは動機付けを行うために本書は書かれたのかもしれない。
 思想の解説書はどうしても淡白になる。思想がたいてい複数の概念を提示し、それを一つ一つ説明して行けば字引のようになってしまうからだ。また誰それの入門となっていても、ウィトゲンシュタインのように時期によって変化する場合が多い。それをまた個別に記述すれば、字引になる可能性は高くなる。思想がどこかで「楽しむもの」から「覚えるもの」になってしまうのだ。そんな思想書がもつ壁を、独断と偏見で越えていった点が橋爪さんの功績だろう。
 多くの本を読むことが暗黙のうちに是とされ、多くのことを知ることが是とされている。そんな風潮とも言えないものがどこかにある。多くを知ることは見識の広さを生み出し、人を豊かにするからだ。多くを知ることは素晴らしい。だが同時にどこかで、「知る」の意味が「聞いたことある」というレベルにまで下がっているような気もする。SNS文化の特徴も、「軽さ」にある。気軽にシェア(おすすめ)できる文化だ。友人がシェアしていたものを少し見て、良ければ自分もシェアをする。このループの高速性がネットを動かしている。そもそもシェアした人をそれについて「知る」人だとは思わず「聞いたことがある」人だと思っている。このような新しい「知」のあり方も良いと思うが、これに傾倒しすぎるのは良くない。知識を広く持とうとするほどに、一箇所に留まれる時間は少なくなる。「聞いたことある」ばかりでは、先へ進むことは難しい。むしろ、ノロくあることが正解な場合もあると思う。
 その意味で、本書はとてもノロかった。構造主義を解説すると言いながらレヴィ=ストロース以外はほんの数ページずつで終わらせている。構造主義の全体について読んだとは到底言えない。詳しく知っている人からは、そこしか知らないのかと言われそうだ。しかしこの木を見て森を見ずな知識は沢山の「聞いたことある」よりも価値がある、と勝手に思っている。いや、本という時代遅れでスローなメディアを嗜好しているので、そう思いたいというのが正しいかもしれない。
 知識や歴史などに対して、普遍的で正しい理解というものはないと思う。正しいとされているのはあくまで現時点での多数の見解だ(という見解が正しくない可能性はあるが…)。つまり、どうせ正しくないのだからすべて主観的判断になるだろう。みんなはこう解釈していると言われても面白くない、独断と偏見のほうがまだ面白い。
 本書のようなものが増えて欲しい。そして、そんなものをまた偶然手に取りたいと思った。

森博嗣著『ヴォイド・シェイパ』シリーズ4冊を読んで

 

 

 森さんの本を読むのは今作が最初だったが、時代小説が本職なのではないかというほどのしっかりとした骨組みに驚いた。その骨組みの重要な要素に「哲学」や「禅」が置かれている。時代小説の中心に禅があるのは当然のようでもある。だが、これがとても新しかった。
 ゼンはその名のように禅問答を繰り返しながら旅路を進む。新しいものやことを目にする度に「なぜ」という問いを自分や周囲の人々にぶつける。そこにあるのは単純な興味であり、他人からは幼稚的ともとられる。しかしこの面倒くさい状態こそが哲学であると思う。問い続けることが哲学であり、納得もしくは割り切った瞬間にそれは哲学ではなくなる。哲学を実行しながら過ごすことは非常に難しい。
 それは「今」を切り取ることに似ている気がする。「今」とはまさにこの瞬間であり、過ぎ去った時間ではない。だがその先鋭化したさらにほんの僅かな部分だけが、本来の意味での「今」だ。そしてそれを考えている間にも時間は進み、新しい「今」が生み出されている。それでも「今」を規定しようとする。この際限ないプロセスそのものが哲学であり、こんなことを考えていれば当然日が暮れる。これほど贅沢な学問はないだろう。
 ここまで「禅」と「哲学」を同じものとして述べてきた。本書を読みながら混同していたのだ。読みながらひしひしと哲学だなと感じながらも、そこにあったのは禅である。しかし、この二つは確かに違うものだろう。「禅」と「哲学」はほとんど同じように思えるが、何が異なっているのだろうか。知識不足ながらに考えてみる。
 まず禅は禅宗の思想であり東洋のもの、哲学は西洋のものという区分が思いつく。そもそも「哲学」という言葉は西周が翻訳する際に作った言葉なのだから、同じ意味を持つ言葉は日本に存在しなかったことが分かる。日本の哲学者と聞かれてもあまり思いつかないのはそのせいだろう。
 そしてもう一つ、「空」という概念の元にあるのが禅で、それがないのが哲学とも言える。哲学は「すべてを疑う」ことであるのに対し、禅は「空を見つける」のである。違うような、同じような表現だ。この「空」とは「なにもないこと」である。「無」とも書ける。ないものを見つけるとはいかにも禅問答といった感じだ。対して哲学は「全て」を疑うのだからそもそもの対象がある。結果的に私以外がなくなろうとも、前提としては「ある」のだ。禅は「ないものがある」ことであり、哲学は「あるものがない」ということになりそうだ。哲学の関係で「暴く」「告発する」という言葉が多く使われるのもそのせいだろう。
 そして仏教がインド発祥であることを考えると、禅と似たようなものが思いつく。それは「0(ゼロ)」の発見だ。歴史的には原始仏教のほうが先に成立しているので、仏教の思想がゼロを生み出した可能性は高い。哲学と科学は両極端な学問と思いがちだが、無の思想で通底していたともとれる。
 最後に当たり前のこととして、禅は仏教の宗派であるから宗教である。哲学はよく宗教と対比され、自分で考えることが哲学で人の教えを信じることが宗教という表現をされる。この対立構造の中にあって、「禅」と「哲学」はこれほど近似した存在なのだ。そんなことがありうるのだろうか。
 そこで哲学と宗教という二項対立を外してみる。宗教であるから盲目的だというような前提を外せば「騙されていることを知っていて騙される」というジャンルの成立も可能だということがわかる。「シラけつつノリ、ノリつつシラける」という状態だろうか。「空」という至高の概念を追い求めながらも、その実態は無であることを知っている。無であるのに、さらにそれを見つめ続ける。もしくは、一見それは無であるが、何かが存在することを信じているのかもしれない。もちろんこの問いに答えられるのは禅の道の人だけだろうが、問えば問うほどに哲学的な宗教であることが分かる。
 武士や侍の文化には仏教などの思想が根付いている。思想は文化全体を豊かにする。武具は飾られ、茶室で茶を愉しみ、書院で学を身につけ、能を鑑賞する。武家の時代の集大成である江戸幕府が250年も栄えた背景に、思想が重要視されていたことが大きいと思う。その思想は仏教だとも言えないものだ。大陸から伝わってきた思想を柔軟に取り入れ続けた結果、神道仏教儒学朱子学など様々な思想が組み合わさり他国にはないものが出来上がった。この名前のない思想こそが日本の伝統であり、日本人の精神だったのではないか。名前もなく、解りやすい題目もない。非常に面倒くさいものであったが故に、現代にうまく継承されなかったのではないか。
 この面倒くささに目を向け格闘することは、とてつもなくリッチだ。