本の感想

評論ではなく、「思ったこと」を書きます

上橋菜穂子著『獣の奏者』Ⅲ探求編 Ⅳ完結編を読んで

 

獣の奏者 3探求編 (講談社文庫)

獣の奏者 3探求編 (講談社文庫)

 

 

 

獣の奏者 4完結編 (講談社文庫)

獣の奏者 4完結編 (講談社文庫)

 

 

 本作は前作のⅠ闘蛇編Ⅱ王獣編で完結していた物語を、作者本人が読み替える形で執筆されている。前の2作では主人公が大人の社会の中で活躍するスペクタクル作品だった印象があるが、本作の追加によってその意味合いはかなり変化した。そのような挑戦をした作者の心意気がまず素晴らしいと思う。
 本作が追加されたことによってこの物語がもつメッセージ性は強化された。そして何より、前作では示唆にとどまっていたものが今作では作者の哲学へと進化していたように思える。具体的に幾つか見ていきたい。
 まずは学問のあり方についてである。前作では身の回りの不思議や疑問を起点として、問題を解決する流れやその面白さが示された。それは小学生の自由研究などで学ぶことになる「学習の面白さ」に似ている。それが全ての学問の起点となるのだ。だが学習意欲や知識や経験が積み重なってゆくとぶつかる障壁がある。人間という一個体の限界である。どんなに学んでも、それは自分という個体が消滅してしまえば道半ばで終わってしまう。そして世界には人間の人生では掴みきれない問題が山ほど存在する。
 そのような学問の儚い現実に、作者は「松明の火」の例え話で道筋を開いてくれるのだ。学ぶことを通して、人類という大きな視点や歴史という大きな時間でものを考える。それは自分がどのような存在であるかという確認でもあり、どうすれば良いのかという問いにヒントを与えてくれる。ここで私には、「ダーザイン」と「実存は本質に先立つ」が想起されるのだ。存在と目的を問うたハイデガーサルトルの哲学に近い。我々は世界を知れば知るほどに自分の存在の矮小さを痛感することになる。そして我々は時間的な限界も持つ。これは絶望でもあるが、同時に自らを突き動かす同期でもあるのだ。そして人間には何のために生きるかという問いへの答が、あらかじめ用意されていない。我々は自明でない自らの存在意義を設定するため、知り考えなければならない。このような矛盾した同期によって歴史は紡がれ、未来へと繋がっていくのだろう。
 次に物語のあり方についてだ。今作全体の大きな要素に「掟」というものがあった。掟は守らねばならないルールを設定するが、それを越えればどんな危険が起こるのかについては伝えてくれない。これが人間の傲慢さや好奇心と交わり、悲劇が起こる様子が本作でも描かれていた。掟は無条件に制約を受け入れることを強い、守らなかった場合の危険性については言及しない。言及しないことによって可能性そのものを封じ込めるという狙いだ。しかしアリストテレスの言うように、人間は生まれながらにして知ることを欲する。知らない方が幸せだという父権的な制約のなかには留まっていられない性を持っている。このような相反する性質を持っているために、掟という形式は特に現代においては成立し難いように思う。
 このような不完全な規律を補うものとして、最後には伝承と呼べるような描写が登場した。伝承によってルールを超えた先に何が待っているのかを知りつつ、主体的にルールを超えない選択をさせるのだ。そしてその伝承とはこの物語全体を指している。この本で描かれた物語そのものが、この時間軸で後に生まれる人々に語り継がれる伝承となる。それは場合によっては神話と呼べるものになるかもしれない。
 物語をいかにして構築するかという物語論は、神話の分析によってもたらされた。勿論全ての物語がその鋳型から生み出されているのではないと思うが、個別の物語は抽象的な理論から演繹されていると見ていいだろう。だとすれば、本書の最後で描かれた伝承化のプロセスはそれを逆に行っていることになる。個別の物語が神話へと帰納されていく。そして神話から物語が生み出される。このループを繰り返しつつ、物語は発展していくのだ。本書はこの構造を暗に示すことによって、物語を享受することの意味を変化させている。それは物語を消費する一時的な快楽から、歴史的時間の意識への昇華である。それが単体として面白いというだけではない見方を得ることで、連続性を持った物語論の視点から見ることができる。そこに発展性や民族・地域・文化背景など複雑な要素を読み取ることが可能になるのである。
 ここまで妄想してしまうと、もはや児童文学という領域には収まりきらないのがよく分かる。それは同時に、児童文学とされながらもそこに収まっていないような作品がまだまだあることも意味する。そんな本を掘り出して、勝手に妄想を深めていきたい。
 児童書コーナーにいる大人というのもなかなか粋ではないか。

上橋菜穂子著『獣の奏者』Ⅰ闘蛇編 Ⅱ王獣編を読んで

 

獣の奏者 1闘蛇編 (講談社文庫)

獣の奏者 1闘蛇編 (講談社文庫)

 

 

 

獣の奏者 2王獣編 (講談社文庫)

獣の奏者 2王獣編 (講談社文庫)

 

 

 上橋さんは文化人類学が専門ということもあって、作品に民族的な空気感が漂っている。本作に限らず、「衣食住」への記述が微妙な違和感を持って現れるのもそのせいだろう。原因は民族ごとに生活に用いる素材が異なるからだ。素材は文化の基礎を形作り、文化はアイデンティティとなる。その意味では現代人の生活の均質さは、民族というものを忘れさせる靄になっているのかもしれない。先人たちは実に豊かな生活をしていた。自分も子供の頃は川で遊び泥にまみれていたことを思い出すと、今のこのノイズの少なさがいかに異常な環境か考えさせられる。原始的であることは、低俗であることではない。豊かさとは、高度な文化のみによって生み出されるものでもない。子供の頃の方がそのことを理解していた可能性はある。目に見える世界の外を探求し、見える範囲を必死に理解しようとする。同じように、本作には隣の国ほどまでしか世界は言及されない。狭い認識の中で、外部に対する畏敬の念が感じられる。子供の世界認識と似ているのだ。そんな要因から上橋さんの作品は児童向けという注釈がつけられるのかもしれない。
 本作では「掟」というものが登場する。いかにも民族っぽい響きだ。掟とはルールのことだが、ルールがあるところには必ずその原因となった事件がある。この物語ではそれが効果的に使用されていた。
 この作品の「掟」のあり方と似ている存在が日本にある。憲法9条だ。上橋さんが意図したかは不明だが、勝手に深読みしたい。本作では王獣規範は王獣を決して繁殖させないためにあった。武器として利用した災厄を避けるためである。ここで重要に思えるのは、人々がそれまで王獣を武器として認識していなかった点だ。それまでは単なる儀礼の品だったものが武器として使えるとわかった時、社会のパワーバランスは変化する。そしてそれを様々な意味で危惧したりする人々もいる。これをただのフィクションだと切り捨てるには、やや説得力がありすぎる。現実の問題でも、記述できる効用だけを問題にするのではなく、それが持つ心理的側面も鑑みなければならないと実感させられる節だ。「掟」は過ちを犯した先祖が今の私たちの平和を願って作った足かせである。未来へ伝えるか、改変するか。その場合の未来の人たちはどんな暮らしをするのだろうか。このような想像力を働かせることは決して無駄ではないと思う。そしてあわよくば、平和の思想を外へと発信していければ幸運である。
 原始的な世界では、この世界よりも物事の構造は簡略である。本作も比較的簡略な因果によって成り立っている。その中でさえ複数の人物の利害が絡み合い、問題がこれほどまでに複雑化しているのだ。3人から社会が生まれるとよく言うが、70億人もいたら大変なことだと理解出来る。原始的であることは物事の本質が見えやすいということだ。この本は様々な要素において世界の原始版が出てくる。多くの示唆を深読みし誤読することが、読者の使命だろう。それに耐えうる強度を持った物語であると思う。

藻谷浩介 NHK広島取材班著『里山資本主義』を読んで

 

里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く (角川oneテーマ21)

里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く (角川oneテーマ21)

 

 

 久しぶりに、タイトルで大損してる本を読んだなと思った。
 聞いただけで興味が失せてしまいそうな『里山資本主義』という題名。さらに副題が『日本経済は「安心の原理」で動く』である。この二連続のダサい言葉が手に取るのを阻んでいた原因だ。このような言葉の裏には盲目的な自己肯定の意識が存在することが多い。我が国日本というものを改めて評価し、それによって得た自己肯定感を個人へとフィードバックしようという思想である。この思想自体は何ら問題は含んでいない。だが、こういったプロセスでは自らのアイデンティティを確認する際に負の要素を省いてしまいがちだ。もちろん負の要素ばかり取りあげれば自己肯定感という目的そのものへと誘導できないのだから当然ではある。本は出版社が利益を得るために刷っている。私も体に良くまずいお菓子よりは、肥満になる可能性のあるチョコのほうを選ぶだろう。乱暴に言ってしまえば、ダサいものは売れるのだからしょうがない。
 そんな大衆の市場に向けて発表されたであろう本書も、ダサい装丁で送り出された。だからこそ、その中身の体に良いことに驚くことにもなったとも言える。
 本書で取り上げられていたのは、経済学の外側である。経済の外側といえば「外部経済」「外部不経済」という言葉を高校で習ったことなどを思い出す。市場の外側の動向によって市場も影響を受けること。今思えば、何を当たり前のことをわざわざ定義してるんだと吹き出してしまいそうではあるが、その先にある巨大な存在が今の世界を動かしているのだ。
 私は経済学が、主要な学問の中で最も発達していない学問だと思っている。それは経済というものが一過性であり、事後的にしか分析できないことが原因だ。人間は往々にして複雑な現象を端的に説明できることに価値を見出し、数学的記号操作を重要なものとみなす傾向がある。そして経済学もこのバイアスに取り憑かれてきた。カーネマンのプロスペクト理論が示す結論を、長きにわたり発見できなかったことも良い例だ。強引にまとめると、「人間は正しい選択をするとはかぎらない」ということになるだろう。このような認知バイアスを経済学は放置して理論形成を行ってきた側面がある。
 勿論、だからといって経済学を軽視するわけではない。私も経済に関してはいっぱしの青二才だ。経済学という巨大な存在を前にひれ伏している。周りの人たちも同様であると思う。だからこそ、経済の外側に重要性を説く本書は有益だった。
 都会で暮らし、より多くの賃金を稼ぐことに意義を見いだせていない人が現代では多くいると思う。こうした人たちの前に存在する壁が、今までの経済学やそれに伴って発達してきた社会風紀である。また高賃金に対する無条件の賞賛が退路を塞いできた。社会的成功かさもなくば、と窮屈な価値観が社会を席巻していたのだ。
 まさにこのような状況こそが、「情報の非対称性」である。経済学ではこれによって様々な問題が生じるとされているが、当の経済がこれを有している状況は皮肉なのだろうか。価値を決定するためのモノサシが「お金」だけではないのに、それに気づかずにいたとはあまりにも非対称だ。我々は価値の基準を個々で設定する筈が、それすらも経済に大きく寄りかかっていた。これから脱する方法は、より多くのオプションを持つことなのだろう。そのオプションは思想かもしれないし、ある人にとっては経済学かもしれない。我々は日々情報を収集することによって、情報の非対称性を是正するように努め続けなくてはならないと思わされた一冊だった。

羽田圭介著『メタモルフォシス』を読んで

 

メタモルフォシス (新潮文庫)

メタモルフォシス (新潮文庫)

 

 

 近代からの日本文学の特徴は、学識のある者が自身の経験をフィクションとして発表することにあったと思う。自分の文章を出版物として発表することは、近代では大変なコストを要し一部の人間にしかできない行為であった。そうした物理的文化的背景から、純文学では崇高な精神という虚像が権威を持ったように思う。例えるならば、『罪と罰』のラスコーリニコフのような精神こそが正しい人間の姿であり、これを広めるために文学があるという考えである。副次的ではあるが、崇高な存在から見た世界の記述であるという意味が、文学という言葉の裏に張り付いている。その要因にあったのは、「成熟していない大衆」という認識だったのではないだろうか。ナショナリズム全盛の時代に、何を良しとするかの分別を啓蒙されることが読者の利益だった。一通りの正しさこそが、求められていたように思う。

 そして今の時代、大衆の哲学は分散し文学の必要性は薄まった。物語の展開に重きを置くのであれば他のメディアのほうが発達している。能動性の不要さでも遥かに他のメディアが優っている。文学の性質を記述する際「マンガにはない要素、映画にもない要素」と、文学の定義がネガティブになってきているのだ。このようなネガティブな定義ではなく、ポジティブな定義を樹立する意味で『メタモルフォシス』は前進的な作品だと感じた。
 この本には常軌を逸したフェティシズムが綴られていた。また、この物語は限りなく主観的に記述されている。先に述べたように、文学は主観を表す。この男の周囲の現象が、この主人公の色眼鏡を通して再構成されていた。他人には到底理解できない思想や感覚が、文字を通して読者に訴えかける。読者は否応なく、この主人公の色眼鏡をかけさせられる。その時の世界の認識は、普段の自分のそれとはかけ離れているだろう。そしてその認識が社会的な普遍性を持っているかどうかは非常に重要な意味を持つ。
 近代に於いては、普遍的という言葉の中には崇高が含まれていたように思う。共通の目指すべき目標があり、そこには普遍性が見出されるからだ。ここで、文学という装置の強力な力が現れる。日本人は皆日本語の読み書きを義務教育で習う。ベネディクト=アンダーソンでいう「空想の共同体」を強固にするために、日本語という最低限の共有物をもつのである。これによって容易になるのが、「理解」と「共感」だ。世の中のほとんどの事物は言葉で表現される。それを表す言葉を理解することで、その事物を理解することができる。シニフィエシニフィアンの関係に近いかもしれない。そして同様に他人の感情も言葉で表現し伝達することができる。これを「共感」という。「共感」を実現するためには共通のものが中間に入る必要があり、それが日本語であるということだ。言語のもつ「共感」の作用は強力で、これを最大のインフラにしてメディアは活動を行ってきたといえる。大きな物語は「共感」のツールとして機能していた。
 近代の文学では、読者は「大衆」としてあった。だが現代ではクラスター化した人々が、互いに興味のない者たちを排斥し合うように存在している。そこには共通な認識というものはない。ある意味、それによって様々なジャンルが乱立しているのだろう。住み分けが進むと、「共感」の届く範囲はより狭くなる。それは同時に狭い範囲では「共感」の度合いが増すことも意味する。そしてメディアはそのクラスターごとに向けサービスを展開させることになる。文化が高度化するに伴い、「共感」できるかどうかが良い作品の基準になってしまうのだ。
 その点で『メタモルフォシス』は「共感」など最初から求めてはいない。ここにあるのは近代から続く主観の文脈であり、主観の凋落である。崇高な精神がない代わりに、一個人がいる。文学がもつ意味を解体し、ポジティブな理解を与えてくれる。共感を超えた理解の可能性を、文学に見ることができた。
 だからこそ、文学のもつ感情変化の形式を守る必要はなかったのでは?

濱野智史著『アーキテクチャの生態系』を読んで

 

 


本を読んで、思ったことを記録する


濱野智史著 『アーキテクチャの生態系』

 私は著者について深く知らず、ネットにもさほど詳しくない。よってここでは単純にこの本を読んだ感想を述べたいと思う。あくまで感想であり、批評ではない。

 『アーキテクチャの生態系』は2008年に出版された。主にインターネットやウェブのシステムに関して著者独自の観点でまとめられている。それを2016年に読むことにどのような意義が生じたのか、勝手に論じたい。
 著者は「アーキテクチャ」「生態系」という視点を様々なシステムに適用し、それらは偶然性によって進化・進歩してきたと述べている。この偶然性の中に、先行世代が露呈した問題点なども含まれている。先行世代のシステムではうまくいかなかった部分を、後発のサービスは構造に織り込んだ形で登場するからだ。そしてこの偶然性の糸を手繰っていけば、インターネットを使う人間の社会性にたどり着く。そういった流れから『アーキテクチャの生態系』は、その社会性、とりわけネットの中の日本性についてを中心に論じていたと思う。
 本書の中で述べられていた日本性は、現在でも同じく通用するだろう。今でもデフォルトの姿勢は匿名であり、恥の文化が幅を利かせている。だが少し変化したと思うのは、ネットの中での多様性である。ネットというものが2008年の時点では「若者」や「オタク」などと括られる人達が利用していたマニアックなものである印象に対し、現在では万人が利用するツールとなっている。単純に見れば、母数が増加した影響でデフォルトの姿勢も多様化してきているといえる。そして本書の示唆を踏まえると、アメリカ的なネット空間やSNSの登場によって、「個のエンパワーメント」という思想が流れ込んでいるのではないかともいえる。出版当時「個のエンパワーメント」という考えは日本では受容されていなかったようだが、現在はリスクを負っても個人としてネットに参加する人が多数いる。場合によっては、その人達はリスクを負うという自覚も薄れてきているかもしれない。現実社会の人々のニーズや思想が多様化したことで、ネットは急速にその門戸を広げたと言えそうだ。
 このような柔軟なネットの在り方を実現した要因のひとつがレッシグであり、本書であったのかもしれない。そもそもネット空間はまだフロンティアであると思う。未だ発見されていない人と人の繋がり方や個人のあり方が眠っており、プラットフォームができて初めて求めていた人々が集まる可能性は大きい。本書の中でも「Facebook」は成功しないのではないかと述べてあったが、結果ユーザーを多数獲得するに至った。他のSNSではできない振る舞いを要求し、それをよしとする人が多くいた。そうした人々は事前には埋もれて確認できないことをこの一節からも読み取ることができる。
 多様化した現在では大衆というものは消滅し、ニーズは分散している。この分散したニーズに合わせて、様々な表現の階層が誕生した。表現の階層を言い換えるならば、石岡良治著『視覚文化「超」講義』での「レギュレーション」にあたるだろうか。レギュレーションとはそれぞれの文化にあるフォームのことで、哲学書に求められるものとブログに求められるものが異なるように表現物はそれぞれのコミュニティーに属する。そしてそれぞれのレギュレーションは相対的なものである。新しいレギュレーションが増えていくことで、文化の多様化も図られるのだ。例えば近似したメディアが登場すると先行世代のメディアと衝突し、どちらかが淘汰されるという考えをよく目にする。だが、互いに住み分けがなされ、結果的にメディアの選択肢は増えることが多い。メディアにおけるレギュレーションもまた埋もれているのである。本書ではまた「新たに登場するメディアというのは、常に先行する世代からこうした(くだらないし新しくもないという)視線を向けられるものだ」と書かれているが、著者もまたその重力から完全には逃れられていないと感じる。もちろん自分は比べるべくも無いが、この逃れがたい思想から可能な限り距離を置くことが、真に多様性を許容できる道なのかもしれない。
 ユビキタスという言葉が巻末で使われ、まだ数年しか経っていないが時代を感じた。今は「IoT」がブームだが、インターネットが瞬く間に張り巡らされ全てが数値化された時、世界は何を合言葉に進歩しているだろうか。その頃には社会を「ハッキング」することが当たり前になっているだろうか。高度に技術化された社会では権力は巧妙に隠蔽されることだろう。その社会が健全であるためにも、今の私たちは改めてアーキテクチャに自覚的になる必要がありそうだ。