本の感想

評論ではなく、「思ったこと」を書きます

フィリップ・K・ディック著『高い城の男』を読んで

 

高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)

高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)

 

 

 SF小説は著者の工夫を楽しみやすいのが特徴だと個人的に思っているが、本作の白眉はやはり物語の構造にあるだろう。第二次世界大戦の結果を逆転させた舞台設定と、そこに登場する逆の世界を描いた小説。この二重の逆転構造が物語全体を牽引してゆく。また、真実と嘘というテーマも加わり、本物と偽物が交差する複雑な描写はサスペンスのようでもある。

 枢軸国が連合国に勝利した世界では、冷戦時代のようにドイツと日本が対立している。アメリカは戦後ドイツのように分断され、属する国家によって人種の扱いも異なる。日本に占領された側では価値観が東洋寄りである。西洋人よりも東洋人の方が地位が高く、美人の基準も日本的なものになっている点はリアルだ。現在の日本の広告などに欧米人が使用され、欧米人的なスタイルが良しとされている背景にも戦争があるとみていいだろう。
 ディックの描く日本人は欧米文学のなかでもそれなりに日本人らしいと思う。しかし様々な要素が取り入れられてはいるが、日本人というよりも東洋人という表現が当てはまる印象だ。例えば易経儒教と関係が深いが、儒教自体は日本にそこまで馴染みがない。儒教といえば韓国や科挙に使っていた中国が代表的だ。もしかすると作中ではこれらの国は全て大東亜帝国に含まれるのでごちゃ混ぜにした可能性はある。日本文化は東洋の諸外国から模倣して形成されたという皮肉なのかもしれない。
 精神性もきちんと考察されている印象を受ける。特に物語の終盤で田上がフランクの装飾品を吟味する描写では様々な文化を引き合いにしているが、語り方は仏教や禅をも彷彿とさせる。田上は真理をシンプルな三角形に見いだそうとし、解脱を図ろうとする。宇宙が小さなものに内包されているという思想は東洋的だ。

 日本とドイツが勝利した世界で出版された「イナゴ身重く横たわる」はさらにその逆の世界を描いている。この本のなかでは大戦の勝者は連合国。実際の歴史と同じだ。
 だが逆の逆は表ではないところが面白い。連合国が勝利した場合の歴史は現実の歴史とは異なったものになっている。その世界ではアメリカとイギリスが覇権を争っているのだ。裏の裏は表のはずなのに、なぜ現実と食い違っているのだろうか。
 裏の裏が表であることは論理学の排中律の原理による。排中律は「Aか非Aのどちらかで、その他は認めない」という原理だ。第二次大戦に当てはめると、「連合国の勝利」か「枢軸国の勝利」かのどちらかであるということになる。そして排中律は中間やその他を認めない。だが歴史的にも、戦争はどちらの勝利ともならない事態が多く存在する。勝利となっても実際の利益は講和条約の細かい条文によって決定する。ましてや連合国枢軸国共に複数の国家の集まりだ。本作のように一部の国家の謀反や離脱が起こることはあるかもしれない。戦争に排中律の原理は適用しづらい。
 「イナゴ」の作者は易経を利用し何千もの選択を繰り返すことで本を執筆した。これはそのまま著者の歴史観ともとれる。歴史は数多の選択の集積によって構築されているという思想だ。そのなかでも選択には大きなものと小さなものがある。教科書に残るような大きな選択の裏には大量の小さな選択が存在している。戦争の結果も個々の小さな戦闘によって左右されている。その場合バタフライ効果のようにほんの少しの差によって結論は変更されてしまうだろう。
 選択には「完全な裏」があるのではなく、小さな要因ごとにパラレルな世界があるだけだ。というように解釈できる。本書の世界も「完全な裏」ではないからこそ、その裏も表ではないのだろう。

 本書は「表と裏」のほかに「真実と嘘」のテーマも持っている。
 本物にはそれだけがもつ歴史が内包されている。また歴史をもつものを骨董品ともいう。しかし本作では本物そっくりの偽物が登場する。フランクの作る精巧な偽物はもはや本物と区別できない。本物と区別できない場合、もはやそれは本物なのではないか。
 ベンヤミンの「アウラ」という概念がまさにこの状況にはふさわしい。「アウラ」は「芸術作品を前にした時の畏怖の念」と表現される。本作の場合は骨董品を手にした時、その物がもつ歴史的なロマンに対して感動することがそれにあたる。骨董品はその物自体に大きな価値があるのではなく、歴史に価値があるのだ。
 だがベンヤミンアウラを「共同幻想」とも表現する。本物そっくりな偽物を前にしたとき、本物と同様の感動を得ることができてしまう。これはまさに物の歴史が共同幻想なのだと自覚させられる事態だ。
 そして歴史そのものも不確かに思えてくる。「いっきに学び直す日本史(近代・現代)」の「歴史の意味」の部分にこのような記述がある。『歴史という語は二義的である。第一に、それは「過去に起こった事柄」を意味するが、第二に、それは「過去についての記述」を意味する』。歴史というとあたかも確実に積み重ねられた足跡のように勘違いしてしまうが、歴史を構築しているのは後の人間なのだ。そこには編纂した人の主観や物理的な不完全さが入り込む。その意味で歴史は揺れ動くものであり確実性は保証されない。本作で売り買いされていた品物たちもそのような脆い価値によって支えられていたのだ。
 田上と手崎将軍とバイネスの会談も、ジュリアナがSD隊員を殺したことにより目的が達せられなかったことも、後の歴史からすると「起こらなかったこと」になってしまう。田上の怒りによってフランクが釈放されたこともフランクからするとなかったことである。歴史は「起こらなかったこと」の積み重ねで支えられているのだ。

 物語の終盤、田上はフランクの作った装飾品によって現実のアメリカを目撃する。真理を超越した存在によってパラレルワールドへ飛ぶというのはいかにもSFといった描写だ。
 日本人優位の世界で暮らしていた田上が、白人優位の世界に驚く。これは終戦時の状況に似ているのかもしれない。戦中日本人は戦意高揚のために自分たちを全肯定されていた。それが終戦によって崩れ落ちた。この時の価値観の崩壊は容易に受け入れ難かっただろう。そしてもし日本が勝っていたら、本作のように日本人優位が続いていただろう。その場合日本人優位というのはまぎれもない「真実」になるのだ。
 イデオロギーや歴史はそれが真実だと受け取りやすい。だがそもそも真実とは何かという問いに私たちは答えられないということをこの小説は教えてくれる。

 さらに本作の終盤では易経によってこの作中作の世界こそが真実であると告げられる。つまりフィクションの登場人物たちに「この世界は真実ではない」と伝えられているのだ。これは文化度の高いギャグか。
 逆というモチーフは私たちの世界に反映させやすい。本作の世界の「イナゴ」は、この世界の本書にあたる。今易経に聞けば「高い城の男」こそが真実であると告げるのだろうか。

ジョージ・オーウェル著『一九八四年』を読んで

 

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 

 

 ジョージ・オーウェルは1903年にイギリス植民地であったインドで生まれた。青年期をイギリス本土で過ごし、その後もほとんどヨーロッパで生活している。そして本書が執筆されたのはオーウェルの死の二年前である1948年。この半世紀といえば二度の世界大戦に代表されるように戦争の時代であろう。戦争は破壊と同時に多くの作品を生み出させる契機にもなった。オーウェルも参加したスペイン内戦ではピカソゲルニカが、音楽では無調や12音技法などが挙げられる。
 戦争はイデオロギーの衝突だが、どのイデオロギーも究極的な目標に平和を置いているところが面白い。オーウェルは if の世界で完全なイデオロギー装置を構築し、完全さの中に含まれてしまう矛盾を描いている。そして「戦争は平和なり、自由は隷従なり、無知は力なり」という矛盾こそが完全体の形なのだ。
 完全な人間とはどのような姿を指すのか。動物的な要素を排除した状態が完全なのだろうか。理性が発展したことで世界大戦が起きたのならば、理性を全面的に肯定するのは難しい。戦争に悲観したであろうオーウェルは、人間の理想的な姿の両極を示すことで読者の文明観を揺さぶってくる。

 戦争の世紀とは今は無き大きな物語が顕在化した時代である。オーウェルの創造の多くがこの時代の政治構造にヒントを得ているようだ。この時代に大国は国民を総動員するためにプロパガンダの手法を研究した。特にヒトラーはメディアを操縦することに長け、映像などを効果的に用いた。この映像を通じたイデオロギーの徹底が本書ではテレスクリーンという双方向通信のテレビによって完全化されていた。
 「何の警告もないまま、また自分が監視されていることを知らないまま、監視されている可能性がある」。実際に監視されている訳ではないのに、可能性によって行動が束縛される。これはミシェル・フーコーパノプティコンを想起させる。物理的に全ての人を監視することができないため、各人の内面へ恐怖を植えつけることで反逆を防ぐ。非常に効率的な方法だ。また本書では言語を統制することによって反逆的な思想そのものを生み出せない方法も登場していた。それだけ聞くと恐ろしいシステムだと感じるが、私たちの生活の中にもその萌芽は見つかるのではないか。
 現代は電子機器に囲まれ、将来的にはそれら全てがインターネットへ接続されるだろう。送信された情報はサービスの向上へ利用されるが、同時に情報によって監視することも可能となる。また言語の統制は取られていないがユーザーの行動やコマンドを限定することで似たような効果はあげられる。技術革新と監視社会は表裏一体だ。
 ゴールドスタインの本の箇所で「その製品が人間の自由を縮小する為に用いられることが可能な場合にのみ、実行に移される」とある。インターネットやお掃除ロボットなどが軍事戦略のために開発された技術であることも含めて、この一文はフィクションの領域には留まらないだろう。

 本書では権力は権力であることをアイデンティティーとして存在するとされていた。
 権力や洗脳というテーマはナチス大日本帝国と密接に結びついている。だがその末裔である日本人はこの歴史を理解できていない。元西ドイツ首相のヘルムト・シュミットも日本人の歴史への無関心を批判している。おそらく本書の権力の構造分析はその理解の助けになるだろう。
 ゴールドスタインの論理を要約すれば、富と権力は異なるものだが富の平等化は権力を揺るがす。なので財を分配しないシステムが求められ、継続的な戦争を行うようになる。「戦争の目的は、領土の征服やその阻止ではなく、社会構造をそっくりそのまま保つことにある」とある。社会構造は「現状を維持する」上層と「上層と入れ替わる」中間層と「万人が平等である社会を作り出す」下層に分解されている。そして日本の歴史にも革命思想が弱いなりにこの意識がある。下層の人々が富をもてば平等な社会が実現されうる。
 つまり権力を脅かすものは技術の進歩による平等なのだ。ゴールドスタインが経済の問題として取り上げたのはマルクス主義の模倣だろうが、技術の進歩は生産性の向上にのみ寄与するものではない。通信技術が発達すれば大衆は意志の疎通がスムーズになり、権力とは別の動きをする可能性は高まる。都合良くコントロールするためにはバカでいてもらわなくてはならない。今の日本の教育がこれに当てはまらないと言えるだろうか。
 技術による平等というとベーシックインカムが話題だ。ベーシックインカムとは「政府が国民に最低限の生活を送るのに必要とされているお金を支給する構想」である。人工知能やロボット技術の発達により人間が労働しなくとも富が生み出される状況になれば、こうした生活保障が可能となる。働かなくとも最低限の生活は保障されるので、よりお金が欲しい人だけが働くようになるだろう。単純作業などの機械的な仕事はロボットに代替され労働から解放されるのだ。
 だがそのような最低保障を導入すれば人は堕落してしまうという意見もある。いずれにせよベーシックインカムを検討できる段階になったという事実は私たちの労働観を大きく変えるだろう。

 本書の描写は私たちに帝国主義時代を否応なく連想させる。トマス・ピンチョンは解説で「伝えられることが真実でないと知りながら、それが真実であってほしいとも思っている」。戦時中の映画によって自国の勝勢が伝えられた時全面的に否定することは難しい。このように権力は巧みに大衆の心の中へと入り込んでくる。権力はメディアをコントロールすることで大衆を動かす。メディアで溢れている現代、より権力に鋭敏になる必要がある。これからますますメディアを巡っての折衝は激しくなるだろう。

ローレンス・クラウス著『宇宙が始まる前には何があったのか?』を読んで

 

宇宙が始まる前には何があったのか?

宇宙が始まる前には何があったのか?

 

 

 本書は宇宙科学の面白さや諸課題を平易な言葉によって紹介してくれる。難解な理論物理学は一般人には縁遠い。それにもかかわらず最先端の面白さを共有することができるのはポピュラーサイエンスの功績だ。
 同じ目的を持った本が1988年にも発表されている。かの有名な『ホーキング宇宙を語る』だ。本書の「はじめに」にある無限に続く亀のたとえ話もホーキングからの引用だろう。この2冊の宇宙の認識史の流れはほぼ同一だ。宇宙科学と人間原理との戦いという部分も共通している。だがエピソードやウエイトが微妙に違う。理論物理学という無機的に思える分野でも作家性が現れる点が面白い。

 科学の面白さを一般の人たちに伝える仕事を欧米ではサイエンスライターと呼び、職業として認知されている。日本では確立されている感はないが、米村でんじろうさんや茂木健一郎さんなどが当てはまるだろう。そもそも専門的な研究の成果を専門用語や数式を用いずに説明することは難しい。その意味でサイエンスライターは奇異な才能を必要とする。厳密さと分かりやすさを両立させつつ、その先にある楽しさを紹介する能力だ。日本ではこの能力に対しての評価が低いように思う。専門的な研究者は研究の内容を問わずに崇拝される傾向が強い。偉いから学者なのではなく、学者だから偉い。自分でも理解できそうな研究はあまり凄くなく、理解できない研究は凄いのだ。一般人の中ではこのように倒錯が起こっている。だからこそ専門的な研究は理解する必要がないと考えているのである。だが、研究者は税金で養われている。市民が社会への効用を期待して雇用しているのだ。雇用主がこのような態度でいいのだろうか。橋渡しをしてくれるサイエンスライターたちに耳を傾け、リターンを享受するべきではないのか。
 科学に限らず、何の為に学んでいるのかわからないものは楽しくない。将来どのように役に立つのかのイメージさえ掴めれば、暗記も苦行ではなくなるだろう。日本の教育は詰め込み型か心の豊かさかと二元論に陥りがちだが、本当に議論すべきはそこだろうか。いずれにせよ問題となるのは「どのように」の部分だ。残念ながら現在の教育は積極的な学習を喚起するに至っていない。インセンティブの大半は受験や就職といった将来への不安だろう。人は楽しさが分かれば言われなくとも覚え調べる。それは教育ではなく学習と呼ばれる。学習への種付けを行うのが教育の役割ならば、文言の如何などではなくいかにしてポジティブな動機を発見させるのかを議論したほうが有益だろう。

 本書に限らず海外の宇宙科学ものの本では神の話が頻繁に登場する。日本人では無神論者が多勢なのでこのような議論をすることは珍しい。では日本人のスタンダードな宇宙の認識とはどのようなものなのだろうか。私たちは科学を勉強する以前どのように考えていたのか。もしかすると多くの人が答えられないのではないか。キリスト教的な世界観を笑う前に自分たちのプリミティブな認識を思い出さなければならない。
 仏教の宇宙観といえば曼荼羅だ。とくに日本仏教では伝統的に金剛界曼荼羅胎蔵界曼荼羅の両曼荼羅がセットになっている。金剛界は精神的な世界を、胎蔵界は物質的な世界を担い二つ合わせてひとつの宇宙を構成する。物質と精神の乖離は西洋でも古くから発見されていたが、仏教も同様の認識であったことがわかる。
 そして悟りという最終的な目標が超現実なものだとすれば金剛界は内側から外側へ、胎蔵界は外側から内側への運動と見ることができる。これは極小空間についての量子論と、大きなスケールを記述する一般相対性理論の両輪によって宇宙を解明しようとする現在の科学状況と似ている。
 著者が神学者ディベートすることで発想を拡張するように、文系が科学を学ぶことでも新たな見識が得られる。そして科学の最先端はまだ常識の感覚では追いつけないということは、表現活動のフロンティアを供給してくれているのも科学なのだろう。

S・W・ホーキング著『ホーキング宇宙を語る』を読んで

 

ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで (ハヤカワ文庫NF)

ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで (ハヤカワ文庫NF)

 

 

 ホーキング博士は現在74歳。数々の業績を残し、存命の科学者では最も有名なのではないか。しかし彼は未だにノーベル賞を受賞しておらず、今後も受賞する見込みは薄いという。理由は彼の専門分野が主に原始宇宙やブラックホールに関するものであり、現代の科学ではそれらを測定する術がないからだ。理論としての整合性があっても実証されなければノーベル賞は与えられない。先進的な業績を讃えるノーベル賞も、先進的すぎる業績には窮してしまうのだ。
 だが本書のような形で一般の人たちに自身の研究やその下地を紹介することで、博士の才能は万人に認められている。賞に頼らなくとも名声があるという、科学分野では珍しくも素晴らしい状態が生まれているのだ。このように実質的な判断によって評価が構築されれば、私たちも科学の発展や健全な組織運営などに寄与することができそうだ。

 本書の内容はポピュラーサイエンスの中では難しいほうに入るだろう。説明するもの自体が難しいことは当然だが、一般向けにしては少し説明が細かい。博士自身が研究者なので誤解を招かないように慎重に言葉を選んでいるからなのだろう。専門家からすれば誤解は嫌悪される。それは研究者気質とも言えるだろうか。それに対して通俗科学では分かりやすさや面白さが優先され多少の曖昧さは看過される。本書の内容もジャーナリストが書けばもう少し砕けた表現になりそうだ。
 本書は1000万部以上売れたようだが、内容からするとそれ程に売れるとは思えない。万人受けするには難しい内容だ。一体どれほどの人が本書を理解できたのだろうか。理解した上で他人に勧めたのだろうか。おそらく、売れた要因のかなりが博士の身体状況への好奇心にあるのではないか。

 理論上は全宇宙の正のエネルギーと負のエネルギーは同量であるらしい。無から互いが生まれ、衝突して無に戻る。ホーキング博士は物質は正のエネルギー、重力は負のエネルギーと説明している。「近くにある二つの物質は、遠く離れている二つの物質よりも小さいエネルギーしかもたない。重力に対抗して近くにある物質を引き離すために、それだけ多くのエネルギーを与えなければならないからである」。これは中学で習う力学的エネルギー保存の法則が拡張されたような表現だ。古典力学では位置エネルギーを地面からの高さと捉えていた。それがニュートン万有引力によって意味合いが変化し、アインシュタインによって存在そのものがエネルギーであるという認識へ拡張された。
 さて、エネルギーが保存されていることはいいが、宇宙全体のエネルギーの総量はどうだったか。正のエネルギーと負のエネルギーは同量なので、全体としてはゼロだ。つまり保存されているエネルギーはそもそもがゼロであり、物理学の理論は全てそのゼロに関するものだと言える。だが誰も「どうせゼロだからどうでもいいじゃん」とはならない。変な生き物である。
 その後の段落で「ゼロは二倍してもゼロである」と書かれている。ここでふとオイラーの公式を思い出した。オイラーの公式は表記にもよるがイコールの片側にゼロがくる。とても美しい公式だ。ネイピア数と虚数と円周率と1が組み合わされた結果ゼロになる。むしろゼロの中にそれらの要素が見出されたとも思える。またこの公式のゼロと1−1=0のゼロでは意味合いが全く異なる。そしてどんな数式も移項を行うことでゼロを作ることができる。物理学や数学においてはゼロをこねくりまわして新しい発見をしているのだ。宇宙科学も同様である。科学はゼロの中に要素を見出す学問とも、結果をゼロにする学問とも言えるだろう。

 ホーキング博士は宇宙科学を人間原理との戦いと捉えているようだ。この宇宙はどのような可能性の中から選びとられ、今のような状態になったのか。その可能性を事後的に網羅することは難しい。我々には選びとられてしまった選択肢しか見えないからだ。宇宙科学はその見えない選択肢と選択肢群の構造を解き明かそうとしている。構造の仮説はもはや概念操作に近い。人間が本来持っている知覚の領域を逸脱した形で仮説が論証されているのだ。ホーキング博士の提唱した「時間と空間は有限だが境界がない」という仮説もイメージが非常に難しい。
 そして、全ての説の最終的な判断材料がある。人類が存在することである。人類が誕生し得ない仮説は宇宙の構造としては不完全である。我思うゆえに我ありだ。そんな最強の証拠を背景に、強い人間原理は「そういうぐあいになっていなかったら、われわれはここに居合わせていないだろうからだ」という結論を持ち出す。確かにその通りだがこれは諦めに近い。神が作ったからという答えと同じだ。強烈な納得感の代わりに、なぜ宇宙がこのようなのかという問いに答えていない。
 これに対抗するのが科学ならば、科学は哲学ととても似ている。アリストテレスの時代では科学と哲学は同じ分野だった。本書の記述にあるように専門性が増したせいで知識の分裂が起こったにすぎない。そして宇宙科学が長きにわたり神と戦ってきたことも同様である。スピノザガリレオも宗教から妨害や迫害を受けてきた。現在埋もれている学説も私たちの盲目性と固定観念によって押さえつけられているに過ぎない可能性はある。

 宇宙科学に近い素粒子論の分野では日本の有名な科学者は多い。本書でも何度か登場した「くりこみ理論」も朝永振一郎が発見した手法だ。朝永は1965年にノーベル物理学賞を受賞している研究者だ。
 そんなことも知らずに生きていける。現代は知識の増大によって知らない分野が大量にある。逆に、知らない分野を知ることで想像力が掻き立てられるのも現代人の恩恵だろうか。

東浩紀+大山顕著『ショッピングモールから考える』を読んで

 

 

 本書の感想はひとえに「楽しかった」に尽きる。しかもこの楽しさは読み終えてからも止むことのない楽しさだ。寝る前に読む本ではなかったと後悔している。

 本書の見解ではショッピングモールは「人間にとって最適な環境をどう作るか」という課題への実験場だ。この実験場は国や宗教にも影響されない。そのため本来とは無関係な観点で切り取られ集められた要素たちがカオスを作る場ともなっている。そして課題への格闘として生まれた奇妙さを著者たちは誤読していく。この誤読がことごとく面白い。
 人が空へ羽ばたこうとしていた時代の実験映像を見て現代人は笑うことができる。笑うのはライト兄弟以外の研究者だ。理由は彼らが本気なのと、それが間違えた方法だとわかっているからだ。しかし当時彼らをライト兄弟と区別して笑った人はいなかっただろう。嘲笑するなら飛ぶこと自体であったはずだ。目的に向けて様々なアプローチがあったからこそ、現代の航空技術があると考えられる。飛躍なくして進歩はない。踏み外すことが創造力だ。NO EVIDENCEな議論をなおざりにしてしまう私達だからこそ、本書の誤読を真面目に笑う必要がありそうだ。

 私は上京組だ。だから東京という都市は電車で移動する空間として認知されている。電車での移動はエレベーターと同じだ。目的地を設定し電車に乗り、降りるともう着いている。その間の動線は意識されることがなく、駅どうしの間隔も曖昧。電車で移動する人間には路線図のような模式図がインプットされていれば良い。東京は駅と路線の集合体として認知されていた。
 だが一度駅から駅へ歩いてみるとちょっとしたショックを受ける。分裂したワールドたちが陸続きであったという発見。それは東京駅のオフィス街を歩いてゆくと秋葉原に着くという当たり前のことである。これほど地理に無知な人間でも生活できる都市なのだ。本書の例えを借りればそれは鉄道というシステムをストリート型に認識していたことになる。各駅はアトラクションとして作用し、路線はそれをつなぐチューブとなっている。路線ごとに文化圏が形成されているというのを聞いたことがあるが、東京の鉄道はまさにストリートだ。本書で地下鉄がピックアップされていた理由に、地下鉄は自分の位置がわからない点があると思う。しかし地図よりも路線図を見る人にとっては、地上の鉄道も十分にストリートとして認識されうる。
 だとすればゴッフマンの儀礼的無関心もストリートの作法ということになる。東京もしくは成熟した都市がマナーを求める作用もここにあるのだろうか。

 建築はしばらくその形態や空間性、素材などが論点とされてきた。だがモールによって思い出されるように、建築とは環境を構成する仕事だ。日本建築で多用される文句に「夏涼しく冬暖かい」とある。当初から建築は気温という目に見えない要素をコントロールする装置なのだ。
 この視点で思い出されるのがフォスター+パートナーズの建築だ。ノーマン・フォスターはバックミンスター・フラーの思想に影響されている。フラーといえば「宇宙船地球号」が有名だ。フラーの思想には常に領域の内側と外側があり、主に内側に関して述べているように思う。宇宙船地球号が地球という領域を設定し、その内部での振る舞いについて論述していることが好例だ。フラーが他に考案したものにジオデシックドームがある。これは端的にフォスターの建築につながっている。このドームは外部と内部を隔離する膜だ。この膜によって内部の環境を統一的に管理することで建築に新たな自由が与えられた。それまでの建築は採光や素材、強度、形態そして気温管理など複数の事案を一度に解決する装置として存在したが、気温管理と対雨の機能ををさらに外部にある膜へ譲渡することで考慮しなくてもよくなった。そういえば、ユートピアはオアシスや水のイメージではあるが雨は降っていない。世界共通で降る水は嫌だが湧く水は好きなのだろうか。
 膜の存在はそのままモールにも当てはまる。本書でもコクーンという表現が使われていたが、モールの中は膜の内側だ。膜の外側の建築の文脈と内側の建築の文脈は機能の点で大きく異なる。外はその土地の気候に合わせなければいけないが、内では普遍的なモール性気候に合わせればいいのだ。これを突き詰めて行けば、モールの土着建築が誕生する。モール建築では外の建築で使われていた文脈は無意味化するので、日本風などの建築は単に文化を示すアイコンとなる。つまりパロディとなってしまう。モール建築の視点から、ヴィーナスフォートなどが現実の西洋建築を模倣していることの面白さが深まりそうにも感じる。
 そしてフォスター+パートナーズの建築は宇宙へと進出しようとしている。奇遇にも本書ではスペースコロニーが触れられていた。モールは宇宙進出への実験場でもあるわけだ。
 スペースコロニーと地球を見比べると、表と裏が逆になっている。それに従ってバックヤードも屋上から床下へと移行するのだろう。トポロジーでは球を裏返せることが有名なスティーブン・スメイルによって証明されたが、実際の方法は後に発見され難解である。ショッピングモールからいかにして宇宙船モール号を生み出すのか。その方法を夢想するのも面白い。
 膜、内部と外部の逆転という観点では『生物と無生物のあいだ』でも取り上げられていた細胞膜の構造などが新しいアイデアをもたらしてくれそうでもある。

 これらの戯言が後に笑ってもらえるだろうか。笑ってもらうにはまだまだ未熟な文章だと自覚してはいる。NO EVIDECEな話をするにはもっと訓練が必要なのだろう。

ミヒャエル・エンデ著『モモ』を読んで

 

モモ (岩波少年文庫(127))

モモ (岩波少年文庫(127))

 

 

 資本主義などの近代以降のシステムと人間の幸福との間には大きな溝がある。そんなエンデの疑問を本書はとてもブラックに、かつ夢のある形でわかりやすく物語っている。私たちは「なぜ」を問わずに受け入れることがあまりに多い。本書にも登場する「時は金なり」という言葉が何の疑問もなく大人の社会には蔓延している。だが「時」とは何か「金」とは何かと問うたことが各人にあっただろうか。「時は金なり」は「時=金」だ。この数式に幸福という概念は登場しない。本書は「時=金」という公式と人間の幸福追求という異なったものがなぜ存在するのかを、子供の視点で社会に対して投げかけている。児童文学ではあるが、取り上げられているのは大人の問題なのだ。

 資本主義もしくは経済は全ての事物を金に換算する。時間に関して言えば時間価値というものがある。10分早く目的地に着くのにあなたならいくら払いますかという質問に答えることで、自分の時間の価値がわかるというものだ。おそらくほとんどの人がこう答えるだろう。「時と場合による」と。本書でも、その時間にどんなことがあったかによって感じ方は変化し、時間は心で感じ時計はそれを不完全にかたどったものだとされている。時計や金によって計量される時間は本物の時間ではないのだ。だがなぜ我々は不完全な方の計量された時間に合わせてしまうのだろうか。時間の代替物である金で考えてみる。
 幸福と金を橋渡しするものとして「便利」がある。ある行為が以前より早く効率的にできる場合、それは便利である。近代は便利が加速した時代とも言える。すべての行為が便利なシステムによって高速で済ませられれば、自分のために使う時間が増える。これがそもそものきっかけであったはずだが、いつの間にか便利が目的になり、何のために便利にするのかを忘れてしまったのだ。これは灰色の男の存在を忘れてしまうことに符合する。
 目的となった便利は比較することができる。それは時に機械のスペックとして表記され、ブログやレビューの評価としても現れる。スペックとはまさに時間的な効率性だ。そして時間は金と換算される。幸福と金の最大の差は目で見えるかどうかだ。幸福は比較できないが、金は増える過程を見ることができる。金はわかりやすいのだ。そして金と同様に時間もわかりやすい。わかりやすいからこそ計量可能な時間は力をもつ。

 わかりやすさと本来の目的の隠蔽という点では、時計がそれを体現している。時計の素は日時計だ。古代では地面に立てられた棒の影を見て大体どのくらいの時間かを見ていた。そこでは周りの生活がメインであり、時計は指標の一つに過ぎなかった。砂時計や振り子時計も同様である。だがのちにゼンマイ式の時計が誕生すると時計の地位は一気に向上する。
 ゼンマイ式の最大の差は動力が環境と切り離された点にある。これによって時間は独自の空間を得た。1675年にグリニッジ天文台が設立され、時計は航海術と二人三脚で発達する。イギリスが世界の覇権を握っていた時代、商人はグリニッジ天文台へ行き、自分の時計を合わせた。これにより異なる時計が世界中で同じ時刻を指すという珍しい現象が起こったのだ。そしてあたかも時間という普遍的なものが存在するかのように錯覚させられた人間は、時間を基盤として現代に至る文明を構築した。同時に時計は文字盤をつけその内部構造を秘匿し、自分の絶対性を信じ込ませようとしている。デジタルの電波時計となるといよいよ物理空間と隔絶する。人類の進歩は時間概念の強化と共にあるのだ。人間が作った時間の神クロノスに、現代の人間は服従しているのである。

 こうした由来の忘却は現代では随所に見られる。モモはその根源にある理由を倒錯しなかったからこそ灰色の男達に対抗できた。カントの定言命法では「あなたの人格およびあらゆる他の者の人格における人間性を、つねに同時に目的として扱い、決して単に手段として扱うことのないように行為せよ」とある。目的と手段は絡み合って似たような形態をとる。手段が目的となった瞬間にその人間性は道徳的でなくなるのだ。
 SNSではアクティブユーザー数が流行の指標とされる。ある一定期間内にそのサービスを利用した人数がカウントされる数値だ。SNSはネット空間で他人と交流をする為の場であるが、運営側からすればいかにしてアクセスさせるかが問題になっているわけだ。だからこそユーザーに利用を喚起させとりあえずアクセスさせる。もちろんそんなストレートに伝えないので、喚起は多様な形態をもつ。ここでも本来の目的の隠蔽が行われているのだ。アクセスする為にアクセスする。この自己目的化が私たちの生活に及ばないよう注意したい。

 マイスター・ホラは針もなく数字もない時計を身につけていた。ホラは「星の時間を表す時計だ」「宇宙の運行にはある特別な瞬間というものが時々あるのだ」「だがざんねんながら人間は大抵その瞬間を利用することを知らない」とモモに説明している。人類が宇宙へ進出した暁には太陽系をグリニッジ標準時が覆うのだろうか。そして銀河系もグリニッジ標準時となるのだろうか。もしそうなれば我々が生み出したクロノスは最強の神である。

九鬼周造著『「いき」の構造』を読んで

 

「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)

「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)

 

 

 本書は題の通り「いき」という日本独自の現象について、分析哲学の手法でその構造を明らかにしようとしている。その分析の手順などは科学の方法に近い。堅実かつ地道な分析の積み重ねによって「いき」が再構成されていく。自明に思われる点でさえもメスを入れていく姿勢に驚嘆した。本書では公共圏という言葉が度々用いられるが、本書の発表が1930年、ハーバーマスの『公共性の構造転換』が1962年である。もちろんハーバーマスの含意はないが、勘違いをしながら読むのも面白いだろう。

 著者は最初に「いき」が日本民族とイコールのものであることの確認を行う。一見「いき」が日本独自のものであることは自明に思われる。だがその点でさえもぬかりなく比較することによって、日本民族の文化歴史をアイデンティティーとして持ち込む必然性を強調している。哲学は再確認のプロセスでもある。そして九鬼周造の哲学はそのプロセスが面白い。
 本稿の最大の特徴は「いき」の分析を内包的方法と外延的方法の二つによって行ったことだろう。概念を内側から思索によって規定し、その後隣接する概念との差異を明確にすることでその輪郭を決定する。結論でもこの手法の順序の重要性が触れられていたが、このプロセスを提示されただけで目から鱗だ。
 本書を読む限り、「いき」とは主に江戸で使われ近代までは皆が共有していた概念のようだ。そして日本を象徴する概念でもある。だが自分は「いき」についてあまり知らずに生きてきたことも分かった。「いき」の中で大きなウエイトを占めるのが、異性への媚態である。「いき」とは、異性へのアピールの度合いが丁度いいことを示す概念なのだ。自分は勝手に「いき」にそのような意味が含まれているとは思わず、侘び寂びの類だと思っていた。野暮でもなく地味でもなく派手でもなく上品でもない。それだけでなく「いき」には異性というものが大きく意識されているのである。これだけでも本書を手に取った時とは「いき」の印象が変わった。
 すべての文章の中に異性というものが写り込むことで、表現の端々が面白く見えてくる。「いき」と野暮の比較の部分では『もとより、「私は野暮です」というときには、多くの場合に野暮であることに対する自負が裏面に言表されている。異性的特殊性の公共圏内の洗練を受けていないことに関する誇りが主張されている。』とある。これは童貞が初体験などを大切にしようとする典型的な心理を表しているように読める。ファーストキスは大事にしたいというような決まり文句の裏にある思考だ。そこには確かに女慣れしていないことへの誇りが含有されていると思う。自身の状態を潔白で清廉であると主張し、自ら行動しない理由としている心理だ。野暮に関する些細な表現から童貞の心理が構築できる。童貞を自負する童貞は野暮なのだ。
 また『荷風の「渋いつくりの女」は、甘味から「いき」を経て渋みに行ったに相違ない。』とある。甘いと「いき」と渋いの流れを説明した一文だが、これも街角に当てはめることができる。街で渋いつくりの人を見かけたら、「ブサイク」などという陳腐な言葉を当ててはならない。この人も甘味から「いき」を経て渋みに行ったに相違ないと思わなくてはならない。人生誰でも甘く感じられる時期は存在する。目の前にいるのは収穫時期を過ぎて渋くなってしまっただけなのだ。「いき」の流れを知ることで、その人が甘かった時期と「いき」だった時期を想像することができる。想像が新たな角度からの視点を可能にする。その可能性だけでも人を見るのが面白くなりそうだ。

 そうして構築された意識現象としての「いき」を、九鬼はさらに客観的表現としても明確化しようとする。ここでいう客観的とは実際の現象やそれを五感で受け取ることである。九鬼は五感のそれぞれについて「いき」の具体例を挙げてゆく。語尾の抑揚や湯上り姿やうすものの透かしと覆いの関係などは現在でも媚態として通用するものに思える。髷の略式化などは女子高生の制服文化などとも重なる。異性へのアピールであるかは微妙だが、そこには正式な平衡を破って崩す方法論と崩し方の軽妙さによる「垢抜」の表現という点で共通性が見られる。
 それらに共通し九鬼も強調しているのは「元禄文化」と「化政文化」の差異である。元禄文化は17世紀後半から18世紀初頭までの文化を指す。この時期の文化の中心は上方にあり、経済発展とともに文化運動が活発になった。長く続いてきた貴族のための芸術が最も洗練された時期ともいえる。対して化政文化は19世紀前半に主に江戸で起こり庶民に向けての芸術表現が発達した。日本における大衆芸術の誕生した時期だ。文化の担い手が貴族から庶民へ移行したことで、表現の内容もシフトしていく。一般に元禄文化は豪華絢爛、化政文化は質素である。絵画の支持体の例では、前者は多くが金箔であったが後者では普通の紙となる。そして「いき」は質素で細やかな表現の中に現れる。九鬼が「いき」だと主張するものは全て化政文化に含まれるが、「いき」も化政文化も江戸由来のものであるからだろう。

 本書を読んでいかに「いき」を理解していなかったか痛感した。だが同時に、「いき」が存在すると現代の私たちも知っていることを面白く思った。九鬼は結論で『我々が分析によって得た幾つかの抽象的概念契機を結合して「いき」の存在を構成し得るように考えるのは、既に意味体験としての「いき」を持っているからである。』と述べている。「いき」の体験を持っていなければ本書の文章を理解することすらできないはずだ。私たちは無自覚的にも「いき」を体験して生活しているのである。これはまさに私たちが江戸の上に生きていることを示している。同様なことが禅の思想である「無」にも当てはまる。「無」の存在も知っているからこそ理解できるのだ。
 「いき」は媚態の他に武士道の理想主義である意気地と仏教の諦めによって構成されている。そして私たちはその全てを知っている。つまり体験したことがある。現代日本人の精神性はまぎれもなく江戸と通底しているのだ。果たしてどこにその欠片があるのだろうか。